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むらやま まさよし

村山雅美

むらやま まさよし

1918.3.28(大正7)〜 2006.11.5(平成18)

昭和期の登山家、南極越冬観測隊隊長

埋葬場所: 区 種 側 番

 東京出身。学習院教員の父の熊太と・府立第三高女の国漢の教員の母の恒子の長男として生まれる。
 1935(S10)友人と〈山があり温泉があって、封切りの洋画を見られる土地〉の3条件を満たし、且つ学力相応ということで松本高校を受験するも失敗し、一浪の末、松本高校に入学。 地理担当の山本幸雄先生との出会いで山岳部に入部し、高校時代は登山三昧の生活を送る。'39東京帝国大学経済学部に入学し、スキー山岳部に入部。 戦時色もあり'42繰り上げ卒業。即ち東京帝国短期大学の第1期生として海軍兵科予備学生となり、翌年予備少尉に任官し、戦艦「長門」に乗り込み、3年余りの海軍生活を送った。 戦後、'53〜'56槇有恒(13-1-6)率いる3次にわたるヒマラヤ・マナスル遠征隊員としてマナスル登山に成功した。
 '56永田武隊長によって編成された南極地域観測予備隊(隊員53名)の第1次観測隊に横浜国立大学工学部より設営担当として参加した。 設営担当は、南極の氷の上に隊員の住居や観測に必要な研究棟の建設者である。氷の上では基礎が打てないという理由より建築業界の参加辞退があり、最大の難問を抱えたまま、南極観測基地の設営は、日本山岳会を通じて大学山岳OBが計画、実行することになった。 この問題を解決したのはテント屋である。零度以下の厳寒地だからこそ、パイプを組んで水で凍らせれば基礎がびくともしないのだ。 第1次観測隊は日本初の南極観測船「宗谷」にて11月8日東京港晴海埠頭を出航し、年明けの1月29日に東南極のオングル島に上陸し昭和基地開設を宣言した。
 第1次観測隊以後、毎年、南極観測隊が派遣されるようになり、村山も参加を続けた。'57第2次観測隊に副隊長、'58第3次越冬隊も副隊長として参加した。 第3次越冬隊として参加した翌年1月、南極に約1年間取り残されていたタロとジロの樺太犬2頭を発見。この感動の物語は後年に映画「南極物語」として上映された。 '62第6次で日本の南極観測がいったん打ち切られた際、政治家の中曽根康弘らの協力を得て、米国の南極基地を観測するなど奔走し、再開に向けて尽力した。 '65南極観測が復活した第7次観測隊に隊長として参加。'68.12.19第9次観測隊の隊長として、11人の越冬隊員を率いて雪上車で日本人として初めて南極点に到達した。 南極点を目指す道すがら村山は、松田竹千代(20-1-10)文部大臣が言った「南極観測は日本の国家的道楽である」という演説を思い出していたという逸話がある。
 引き続き、'74第15次越冬隊隊長として参加。'83公開の映画「南極物語」を監修。 国立極地研究所を退官した後も極地通いを続け、'88チャーター機で北極点に降り立ち、南極点と北極点を踏んだ最初の日本人となった。 '89(H1)勲三等旭日中綬章受章。国立極地研究所名誉教授。2003老朽化した南極観測船「しらせ」の後継船予算化が厳しくなると、観測隊OBや著名人を集め「南極観測の将来を考える会」を結成、観測継続を訴えた。 主な著書に『地の果てに挑む―マナスル・南極・北極』、『南極点への道』、『南極観測隊―よみがえる昭和基地』、『極地探検99の謎』など多数ある。 前立腺がんのため東京都新宿区の東京医大病院で死去。享年88歳。葬儀は東京都新宿区の一行院千日谷会堂にて営まわれた。 没後、正七位から従四位に昇叙された。座右の銘は『可能性を信じて前進する』。

<共同通信訃報記事など>
<地の果てに挑む>


*ネパール・ポカラのフェワ湖岸の高台にある仏舎利塔の一角に「村山雅美記念碑」が建つ。建立者は親交があった写真家の加藤恒光氏。碑石には「南極の原点はヒマラヤにあり 我が人生は極地三昧」と刻む。

*墓所は「村山家之墓」。


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