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むらやま くまた

村山熊太

むらやま くまた

1881.3.10(明治14)〜 1975.7.15(昭和50)

大正・昭和期の教育者

埋葬場所: 21区 2種 5側

 香川県鵜足(うた)郡岡田西村(丸亀市綾歌町岡田)出身。香川県師範学校を卒業し、山田小学校、岡田小学校で先生を務めた後、1910(M43)東京高等師範学校卒業。
 卒業後は、東京府立第二中学、学習院助教授を経て教授となる。この時、昭和天皇の小学校時代に教育係に任命されている。その後、東京高等学院の学院長を務め、東京で28年間教育業に携わる。
 東京の住居を長男の村山雅美(同墓)に任せ、'39(S14)香川県に帰郷。地元で教育委員、綾歌郡教育委員連絡会長を務める。また坂出実習女学校、坂出実習高校、香川短期大学でも教鞭をとった。'54 若い時に教師も務めたことがある丸亀市立岡田小学校の校歌を作詞しており、この岡田小学校には「村山熊太先生之像」が建っている。'59.2 岡田小学校新校舎落成記念の時に、親交があった小泉信三(3-1-17-3)から「よき友とよく學べ」が贈られた。なお、岡田小学校には熊太の長男の雅美からは「南極の石」が贈られている。
 仏教の研究にもつとめ、著作に『妙好人の余瀝』『文法精義』『こころの光』(1949)、『妙好人の歩み』(1955)などがある。'73 勲4等瑞宝章受章。享年94歳。

<20世紀日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<夢づくり人づくり新聞 第131号(公益社団法人香川県教育会発行)>


墓所

*墓石は和型「村山家之墓」、裏面「昭和十二年十月 村山熊太 建之」。右面が墓誌となっており、妻の つね(S23.10.17・行年59才)歿から刻みが始まり、熊太、長男の雅美と続き、雅美の妻のキヨ(H25.3.10没・行年90才)が刻む。熊太の戒名は大教院釋悠然居士。雅美の戒名は至極院浄峰雅徳居士。左面には「村山家在於讃岐国綾歌郡岡田村今(ラではなくテで今の異字体)分骨埋葬此地先祖代々諸佛遍照光明焉」と刻む。

*墓所右側には村山家と並び、黒ミカゲの正方形墓石に前面「無」、裏面「令和二年十二月 井村次雄 恵美 建之」と刻む。孫夫妻のお墓である。


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