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もりなが ためよし

森永為貴

もりなが ためよし

1911.2.1(明治44)〜 1998.4.20(平成10)

昭和・平成期の柔道家、実業家(日新製糖)

埋葬場所: 10区 1種 1側

 福岡県若松市出身。金沢四高在学中より柔道部の有段者として活躍。卒業後は神戸商業大学に進学。大学時代も柔道で活躍した。東京商大柔道部に強烈な印象を与え、同大柔道部の年史には闘志の権化、豪将などと特記されている。その後も実業と並行し柔道を続け、講道館7段で「寝技の鬼」と異名をとったほどの英傑であった。
 1938(S13)大学を卒業し、日本ゴムに入社。日本ゴム販売課長を務める。'42 戦争中は日本ゴム傘下の(株)旭製鋼所に就職し、'45.8.15 終戦を迎える。戦後は、旭食品工業取締役工場長を経て、'49 九州製糖常務となる。
 老舗メーカー「旭食品」の権力争いにおいて森永は離脱して、39歳の時に独立を志し、'50.6 資本金450万円をもって東京都中央区木挽町にて日新製糖(株)を創立し、代表取締役に就任。初代社長は日本ゴム社長や福岡製紙社長を務めていた永田清(1-1-1)が就任した。同年、豊洲工場操業開始し、'53 本社を中央区日本橋小網町に移転。'55 日新製糖の2代目代表取締役社長に就任した。
 その他、東新産業社長、日新カップ社長、マラヤンシュガーマニュファクチャリング社取締役、日本ボート産業取締役、日新建設取締役、糖業協会理事、産業研究協会副理事なども歴任した。'77 第10回食品産業功労賞受賞。
 1972.12 ニューヨークアスレチッククラブに影響を受けて、日新製糖の社会事業部として東京都江東区豊洲に「ドゥ・スポーツプラザ」1号店(スポーツジム)をオープンした。これは日本で初めての大型総合スポーツクラブ(延べ床面積6500坪)であるため、日本にフィットネスビジネスをもたらした先駆者と称される。
 しかし、1970年代はスポーツクラブそのものの概念が日本には無く、オープンしてから5年で50億円の莫大な赤字を計上することになった。本業の製糖業が好調であったため本社の補填で乗り切ることができた。以降も粘り強く運動促進の啓蒙活動を行い、フィットネスクラブの認知貢献及び定着させた功績は大きい。
 '84(S59)3月期、原料糖買い付けの巧みさを武器に好業績を続けてきた日新製糖が創業以来初めて42億円という経常損失を計上する大ピンチに陥った。「原料糖相場を読み違えたからです」と当時を回想しているが、その後立て直しに成功した。
 '89(H1) 34年間務めた社長を退任し、会長に就任。社長は長男の森永為隆(同墓)が就任。'93 四男の森永秀夫(同墓)を副社長、三男の森永吉隆を専務に就任させ、日新製糖を息子たちに引き継がせた。また、'92(H4) 二男の森永正隆を社長に立て不動産業にも乗り出し、日新不動産を創業して会長に就任した。
 カップ印でおなじみの「日新製糖」を一代で築き上げ、国内の家庭に定着させただけでなく、砂糖事業を海外にも拡大。総合甘味サプライヤーとして多種多様の甘味料を販売し、日本を代表する砂糖メーカーに育て上げた。天才的なヒラメキと砂糖市場の相場での勝負師として幾多の困難を乗り越え「製糖の王者」と称された。会長在任のまま心不全のため逝去。享年87歳。通夜、密葬は近親者だけで行い、'98.5.21 本葬は池上本門寺で執り行われた。

<帝国人事興信録>
<日新製糖三十年史>
<日新製糖HP沿革など>


*墓石正面「森永家之墓」、右面「平成五年六月吉日建之」。右側に墓誌が建つ。森永為貴の妻の正子(T6-H5.2.28歿・行年76才:春光院妙正日薫大姉)から刻みが始まる。森永為貴の戒名は常光院法勵日為居士。行年は88才と刻む。次に長男の森永為隆(S15-H12.6.14・行年61才:一乗院法瑩日隆居士)、四男の森永秀夫(S24-H28.4.28・行年68才:慈教院法徳日秀居士)が刻む。

*二男の森永正隆(S17生)は日新建設社長、日新舗道建設社長、日新不動産社長を務めた。三男の森永吉隆(S22生)は日新製糖専務、テンノットツアーズ社長、東新産業専務を務めた。


【「日新製糖」繁栄と低迷】
 1950(S25)39歳の森永為貴が日新製糖を創立。東京都に本店を置く「砂糖製造販売及び砂糖加工品販売」メーカーで、住友系グループの一つであった。
 '55 日本で初めて砂糖を小袋包装による家庭用砂糖を販売したメーカーでもある。真っ白な砂糖がぎっしり詰まった四角い袋。パッケージの表には大きな赤丸。その中にカップマーク。誰もが目にしたことがある「上白糖」が日新製糖の看板商品であり各家庭に普及させ、世界一美しい白砂糖と言われるほど、現在も広く親しまれている。
 そして消費者のニーズにあわせたサイズで販売や、自然食品、健康食品など先駆けた商品開発なども特徴である。試行錯誤の上に開発され、種類の豊富さもウリのひとつである。例えば、ヨーグルトに付いてくる白い粒状の砂糖や、フロストシュガー、オリゴ糖など健康的甘味料も販売製造している。自然の風味が残った「きび砂糖」は、健康ブームの追い風により人気が再燃した。
 '61 東京証券取引所にて第2部に上場して以降、日新製糖は成長を続け、34年間続いた森永為貴社長が、'89(H1)社長を退任して会長に退く。長男の森永為隆が社長に就任し、4年後には四男の森永秀夫が副社長に就任し、日新製糖は息子たちの代に引き継がれ、'98.4.20 森永為貴は逝去した。
 しかし、父が亡くなったと同時に日新製糖は大きく傾いて行った。'99(H11)日新製糖は3月期の決算で348億円の特別損失を計上し、最終損益が235億円の赤字に転落した。子会社が開発していたゴルフ場が、資産の評価替えをしたのに伴って348億円の特別損失を計上し、それを日新製糖本体が子会社事業損失引当金として引き受けたのが大きな理由であった。この環境激変を読めずにゴルフ場開発で多額損失を出した責任を負うため、社長の森永為隆、副社長の森永秀夫は引責辞任した。後任の社長は竹場紀生が就任した。
 2011.10「新光製糖」と経営統合。共同株式移転により設立した持株会社である日新製糖ホールディングス株式会社の子会社となる。同社が東京証券取引所第2部に新規上場するとともに、同.9 日新製糖は上場を廃止する。2013.4 日新製糖ホールディングス株式会社が日新製糖株式会社及び新光製糖株式会社を合併し、日新製糖株式会社(2代)に商号変更。2014 住友商事とともにタイの最大手「セート・タイ・インターナショナルシュガー社」と提携したことで、2015 東京証券取引所にて第1部に指定替え。同.1 ドゥ・スポーツプラザは日新製糖より分社独立し、株式会社ドゥ・スポーツプラザを設立。2017 ヒットシリーズ「オリゴ糖」の新商品3品を販売開始。2019.2 日新製糖が株式会社エヌエーシーシステムの全株式を株式会社中村屋から取得し子会社化。2020.4(R2)株式会社ドゥ・スポーツプラザと株式会社エヌエーシーシステムが合併、株式会社日新ウエルネスに商号変更。2022.6 日新製糖は伊藤忠製糖株式会社と経営統合に関する基本合意書締結。同.10 日新製糖分割準備株式会社設立。2023.1.1 伊藤忠製糖を完全子会社とする株式交換を実施。併せて日新製糖(2代)の事業を日新製糖分割準備に承継する会社分割を実施。持株会社へ再移行し、ウェルネオシュガー株式会社に商号変更。日新製糖分割準備は日新製糖株式会社(3代)に商号変更。2024.10 日新製糖株式会社(3代)は経営統合によりウェルネオシュガー株式会社に社名変更。


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