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もりなが ひでお

森永秀夫

もりなが ひでお

1949.6.6(昭和24)〜 2016.4.28(平成28)

昭和・平成期の実業家(日新製糖)

埋葬場所: 10区 1種 1側

 東京出身。日新製糖創業者の森永為貴、正子(共に同墓)の四男。兄たちも日新製糖に関り、長男の森永為隆は日新製糖社長。二男の森永正隆(S17生)は日新建設社長、日新舗道建設社長、日新不動産社長。三男の森永吉隆(S22生)は日新製糖専務、テンノットツアーズ社長、東新産業専務を務めた。
 1973(S48)慶應義塾大学商学部卒業。'75 日新製糖に入社。原糖部付部長。'81.6 日新製糖取締役 総合企画部長、フィットネスクラブ「ドゥ・スポーツプラザ」の運営などで活躍。'83.6 日新製糖常務として原糖販売部・業務部・技術開発部・豊洲工場を担当。
 '85. 日新製糖専務に就任し、販売部長。'86 専務営業本部長を経て、'93(H5)日新製糖副社長に就任した。この間、'89(H1) 34年間社長を務めた父の森永為貴が会長に退き、兄の為隆(同墓)が社長に就任。4年後、秀夫が副社長就任と同時に、兄の吉隆が専務となる。また兄の正隆は日新不動産社長に就任(1992)。日新製糖は息子たちに引き継がれ、父からの世代交代をする。'98.4.20 父の森永為貴が逝去。しかし、父亡き後に日新製糖は大きく傾いていくことになる。
 '99(H11)日新製糖は3月期の決算で348億円の特別損失を計上し、最終損益が235億円の赤字に転落した。子会社が開発していたゴルフ場が、資産の評価替えをしたのに伴って348億円の特別損失を計上し、それを日新製糖本体が子会社事業損失引当金として引き受けたのが大きな理由であった。この環境激変を読めずにゴルフ場開発で多額損失を出した責任を負うため、社長の森永為隆、副社長の森永秀夫は引責辞任した。為隆は会長、秀夫は取締役に退いた。兄の為隆は翌年食道がんで逝去している。以降、日新製糖取締役として尽力した。享年66歳。

<帝国人事興信録>
<日新製糖三十年史>
<日新製糖HP沿革など>


*墓石正面「森永家之墓」、右面「平成五年六月吉日建之」。右側に墓誌が建つ。森永為貴の妻で母の正子(T6-H5.2.28歿・行年76才:春光院妙正日薫大姉)から刻みが始まる。父の森永為貴の戒名は常光院法勵日為居士。次に兄(長男)の森永為隆(S15-H12.6.14・行年61才:一乗院法瑩日隆居士)、森永秀夫(S24-H28.4.28・行年68才:慈教院法徳日秀居士)が刻む。妻はエリ子。

*【「日新製糖」繁栄と低迷】は森永為貴の頁に詳しく記す。


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