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くろさき りんぞう

黒﨑林蔵

くろさき りんぞう

1887.3.25(明治20)〜 1944.3.2(昭和19)

明治・大正・昭和期の海軍軍人(少将)

埋葬場所: 19区 1種 1側

 新潟県出身。1909.11.19(M42)海軍兵学校卒業(37期)。同期に井上成美(後の大将:21-1-3-16)、北川茂春(後の少将:26-1-39)、國生行孝(後の大佐:8-2-30)らがいた。少尉候補生として宗谷乗組、鹿島乗組を経て、'11.2.27 少尉に任官。同.10.12 対馬乗組の後、'12.8.9(T1)砲術校普通科学生、同.12.1 中尉に進み、同.12.20 水雷校普通科学生として学ぶ。
 '13.5.24 筑波乗組、'15.2.1 吹雪乗組、同.12.13 横須賀海兵団附を経て、'16.12.1 大尉になり、桐乗組。'18.9.10 第2特務艦隊司附、同.11.1 桂乗組、'19.11.1 最上分隊長、'20.8.1 能登呂分隊長 兼 艤装員、同.8.10 能登呂分隊長、'21.7.1 馬公防備隊分隊長、'23.7.16 呉防備隊分隊長を歴任し、同.11.10 勝力水雷長に補される。同.12.1 少佐に進級し、'25.12.1 大湊防備隊水雷長に着任。
 '27.11.15(S2)神威運用長、'28.11.20 横須賀鎮守府附、同.12.10 中佐に昇格し、鳴戸副長に就任。'29.11.5 常磐副長、'30.11.15 馬公防備隊副長、'32.12.1 横須賀防備隊副長を経て、'34.11.15 大佐に昇進し、横須賀鎮守府附となり、同.12.10 待命、同.12.15 予備役編入。
 '37.8.19 充員召集がかかり、同.8.28 呉鎮守府出仕となり第一船舶輸送司附に着任。同.12.1 呉鎮守府附、同.12.6 横須賀鎮守府附を務め、同.12.15 充員召集解除となる。同.12.17 技研研究業務嘱託、'38.5.20 艦本造船業務嘱託、'40.12.27 海軍省業務嘱託と軍と関わった後、'41.3.25 後備役となるも、同.4.1 予備役に戻る。
 大東亜戦争開戦前、同.9.4 再び充員召集される。同.9.20 佐世保鎮守府附、同.10.8 旅順要港部附、同.10.15 機雷など海中の危険物を取り除き、航路の安全を確保する第50掃海隊司令に着任。同.12.8 大東亜戦争(太平洋戦争)勃発。'42.1.25 横須賀鎮守府附、同.2.1 第1監視艇隊司令、同.6.25 横須賀鎮守府附を経て、同.7.10 特設巡洋艦「清澄丸」艦長に就任した。
 「清澄丸」は南西方面に転じて第一南遣艦隊(大川内伝七中将)主隊に編入されるタイミングで艦長に就任している。同.7.31 メルギーに進出し、インド洋で通商破壊を行うB作戦のため待機。しかし、同.8.7 待機中、ガダルカナル島にアメリカ軍が上陸したことにより状況は一変してB作戦は中止となり、「清澄丸」は昭南(シンガポール)に引き返したあと、同.8.25付で連合艦隊付属に戻った。同.9 インド洋での通商破壊作戦のために特設巡洋艦「報国丸」と「愛国丸」が昭南に進出してくるが、作戦の前にガダルカナル島の戦いに投入される第38師団(佐野忠義中将)のメダンからラバウルへの輸送を命じられ、「清澄丸」は2隻に合流して輸送作戦に参加した。同.12「愛国丸」および特設巡洋艦「護国丸」とともに、第5師団(山本務中将)の一部をラバウルへ輸送することとなった。同.12.2 昭南を出港し、同.12.12 ラバウルに到着するも、輸送した部隊もろともマダン、ウェワク攻略の「ム号作戦」にそのまま転用される。同.12.13付で第8艦隊(三川軍一中将)の指揮下に入り、同.12.16 ラバウルを出撃。「清澄丸」は軽巡洋艦「天龍」とともにウェワクに向かい、「愛国丸」と「護国丸」はともにマダンに向かった。マダンに向かった部隊は「護国丸」が爆撃を受けて損傷し、マダン行きに転じた「天龍」がアメリカ潜水艦「アルバコア」の雷撃で沈没するなどの被害を受けたが、ウェワク行きの「清澄丸」は無傷で部隊を揚陸させ、同.12.21 ラバウルに帰投した。同.12.29 横須賀鎮守府附となり帰朝。
 '43.3.2 赤城丸艦長に就任。12月上旬まで北方海域の警戒にあたる。その後、特設巡洋艦のまま輸送任務についた。同.12.23 「赤城丸」はウェーク島に送られる独立混成第5連隊と戦車第16連隊主力を乗せ、駆逐艦「初月」と「涼月」の護衛を得て呉を出撃。'44.1.1 ウェーク島に到着。第一回輸送を終えて呉に帰投し、今度は砲兵大隊と工兵隊、衛生隊を乗せて、同.1.15 呉を出撃するが、翌日、豊後水道通過中に「涼月」がアメリカの潜水艦スタージョンの雷撃で大破し、輸送作戦は一旦中止となる。
 「赤城丸」は「初月」の護衛で横須賀に回航され、特設運送船「愛国丸」と特設潜水母艦「靖国丸」とともに輸送船団を構成し、同.1.24 横須賀を出撃。同.1.31 アメリカの潜水艦トリガーの攻撃で「靖国丸」が沈没したものの、同.2.1 トラック諸島に到着する。しかし、クェゼリンの戦いの末にクェゼリン環礁が陥落してこれ以上の前進が困難となり、ウェーク島に向かう予定だった陸上部隊の第二陣はポンペイ島防衛に転用されることとなった。
 陸上部隊を降ろした「赤城丸」は日本への帰途、トラック残留の引き揚げ日本人を乗せることとなる。だが、陸上部隊関連の荷役に時間がかかり、この間、偵察のB-24がトラック上空に飛来し、アメリカ海軍は偵察の結果をもってエニウェトクの戦いの支援でトラックを空襲することを決意。引揚者を乗せた「赤城丸」は練習巡洋艦「香取」、駆逐艦「舞風」および「野分」とともに第4215船団を編成し、同.2.26 トラックを出港するも空襲を受ける。環礁内だったためスピードは出せなかったものの回避運動を行い、被害はなかったため帆を進めるも、トラック北水道を通過したあたりで、再び攻撃隊の空襲を受ける。この攻撃で「赤城丸」は二番船倉に命中弾を受けるが、怯むことなく北上を急いだ。
 攻撃隊第三波が飛来し、五番船倉の両舷に命中弾を受けて火災と浸水が発生、間もなく火薬庫が爆発を起こして「赤城丸」は危機に瀕する。黒﨑艦長は総員退艦を令して生存者を他の船に移そうとした。しかし、海上に漂う遭難者は機銃掃射を受け、また救命ボートに兵員と乗り合わせていた民間人は迷惑をかけられないと海中に飛び込む者多数。ほどなくして「赤城丸」は沈没した。沈没を見届けた米国の航空部隊は空襲を中止し去った。
 「香取」「舞風」「野分」は負傷した黒﨑艦長の他、「赤城丸」の生存者を何とか救助した。だが、米国戦艦2隻(ニュージャージー、アイオワ)と重巡洋艦2隻(ミネアポリス、ニューオーリンズ)および駆逐艦4隻が出現し、艦砲射撃により「香取」と「舞風」を撃沈した。結果、第4215船団4隻のうち「野分」だけが脱出に成功。「香取」と「舞風」の生存者はいなかった。「赤城丸」に乗船していた引揚者の565名が犠牲となったほか、乗員にも多数の死者が出た。黒﨑艦長は救助されたが、同.3.2 収容先の病院で負傷がもとにより戦死した。正5位 勲3等 功2級。享年56歳。没後、1階級特進し少将となった。

<帝国海軍提督総覧>
<日本海軍総覧>
<日本海軍史>
<日本軽巡戦史:中部太平洋方面海軍作戦など>


*墓石は和型「黒﨑家之墓」、裏面「昭和三十五年 妻 黒﨑セイ 建之」。右面に戒名「武洋院釋寶林」「海軍少将 正五位 勲三等 功二級 黒﨑林蔵」「大東亜戦争に際し、昭和十九年三月一日 内南洋に於いて戦死 享年五十七才」と刻む。左面は墓誌となっており、妻のセイ(釋尼妙譽:S54.10.26)の他、長男の黒﨑正彦(H22.12.11・87才)、正彦の妻の七重(R5.9.28・90才)、正彦の子・林蔵の孫の準二(R1.5.11・68才)が眠る。


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