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こうもと てつお

河本哲夫

こうもと てつお

1887(明治20)〜 1977.6.29(昭和52)

大正・昭和期の出版人(新生堂・新教出版社)

埋葬場所: 22区 1種 38側

 広島県沼隈郡今津村出身。河本膳左衛門・ダイ(共に同墓)の子。兄に洛陽堂創業者の河本亀之助(同墓)がいる。
 1916(T5)アメリカ留学から帰国し、長兄の河本亀之助の出版社の洛陽堂で企画や編集に参加。翌、'17神田神保町の電車通りに「新生堂」を創立し古本屋を開業した。古本屋業は全く経験がなかったが、知人の紹介で知り合った牛込の加藤古本店主人の指導を受け商売について勉強する。開店に際し、在米中に買い集めていた約千冊ほどの洋書と海外から輸入したキリスト教書や、美術書の古本などからスタートした。珍しい古本を多数用意していたこともあり、キリスト教関係者や作家、画家など著名な人たちが常連客として訪れたという。作家では有島武郎(10-1-3-10)、大仏次郎、武者小路実篤、木村荘八らは顔なじみの客であり、富士見町教会が近かったことから植村正久(1-1-1-8)から懇意とされ、時に自宅まで本を届けに行く仲であった。
 '20兄の河本亀之助が病のため逝去。これを機に洛陽堂から退いて、キリスト教書専門の販売と出版に専念をしようとしたが、'23.9.1 関東大震災が発生。商品家財の全部が炎に包まれ無一物となり、新生堂の古本屋はもちろん、洛陽堂の書庫、店舗、印刷機、製本工場の全部を灰に帰してしまった。しかし、被災した翌月、再興の資金を集め、友人たちの援助を受け、もとの焼跡に小さなバラックを建て、キリスト教専門の出版に乗り出す。震災後、東京の出版界では最初の出版として、帆足理一郎『人間苦と人生の価値』『精神生活の基調』の二冊を発売した。大震災によって数多くの書籍が焼失したこともあり、読書に飢えていた人々にこの二冊は歓迎を受けベストセラーとなった。当時の青年層から多大な共感を得ていた帆足ともタッグで『哲学概論』『宗教と人生』を引き続き出版し、これも各3万部を超えるベストセラーとなった。
 帆足理一郎の著作を手始めにして出版業が波に乗り、他に四百字詰原稿用紙七千五百枚というカルヴインの中山昌樹全訳『基督教綱要』全三巻を刊行する。その傍らで、個人雑誌として帆足の『人生』、同じく熊野義孝の『プロテスタント研究』、キリスト教児童雑誌『光の子』、同じく総合雑誌『宗教思潮』の四つの定期刊行雑誌を発刊した。帆足の『人生』誌上において、'31(S6)頃より非戦論を展開し、'35には当局に目をつけられ『人生』は発禁処分を受け、出版主である河本と著者の帆足は検挙され、一晩留置場に留め置かれたりした(筆禍事件)。
 '37自身の編として『時代と教壇 : 現代基督教説教集』を刊行するなど精力的に活動していたが、太平洋戦争下にあって戦時企業整備令が発せられ、キリスト教出版社の統合が進められた。河本の新生堂の他に、日曜世界社、長崎書店、日本聖書協会、愛之事業社、教文館出版部、警醒社、基督教思想双書刊行会、一粒社、基督教出版社の10社が統合し、'44「新教出版社」が設立され、河本が社長となった。だが実際にはキリスト教書への用紙の配給はなされず、戦時下におけるキリスト教出版への圧迫で経営は成り立たず、開店休業のありさまであり、新教出版社としての本来的な出版活動は敗戦後の'46春からとなる。
 戦後は、 キリスト教の「文書伝道」を最も大切な使命と考え、特定の教派・教団あるいは特定の神学だけが正しいと考える悪しき教条主義(ドグマティズム)を排し、キリスト教の真理を自由で柔軟な発想を通して多くの人たちに伝達する良き「通路」でありたいと願い出版活動を行った。'72.12財団法人日本キリスト教文化協会による、キリスト教文化の振興・発展のために貢献した人に与える「キリスト教功労者顕彰」(第7回)を受賞した。90歳で天昇。

<日本キリスト教出版史夜話>
<キリスト教総覧など>


墓所

*墓石は和型「河本家之墓」。左面に河本龜之助、河本哲夫、河本テルの3名の名と没年月日が刻む。右面には河本膳左衛門、河本千春、河本ダイの3名が刻む。裏面は河本俊三、河本緑の2名が刻む。河本俊三は洛陽堂印刷所責任者を務めていた。河本家墓石に左隣りに並んで十字を刻み前面「わたしは裸で母の胎を出た また裸でかしこに帰ろう 主が与え主が取られたのだ 主のみ名はほむべきかな」と刻む墓石が建つ。裏面は墓誌となっており関口敏子の名が刻む。左面に「昭和六十年十一月建之 関口實 / 大竹三十子」と刻む。

*河本とタッグを組んでベストセラーを連発した著者の帆足理一郎(1881-1963)は大正時代にドイツ哲学全盛のなかで、自由主義のキリスト者としてデューイら英米の哲学の紹介・普及につとめた早稲田大学などで教授を務めた人物。妻の帆足みゆきは婦人問題や教育問題などの評論家として活躍した。墓は護国寺(東京都文京区)にある。


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