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こうもと かめのすけ

河本亀之助

こうもと かめのすけ

1867(慶応3.10.21)〜 1920.12.12(大正9)

明治・大正期の出版人(洛陽堂)

埋葬場所: 22区 1種 38側

 広島県沼隈郡今津村出身。河本膳左衛門・ダイの長男。大成館に学ぶ。小学校助教となり今津・松本・高須等にて教鞭を執る。その後、今津郵便局の事務員を経て、1891(M24)上京。上京当初は、牛乳配達、新聞売子等の苦労を重ねたが、国光社印刷所に入り、1908退職するまで数々の要職を重ね力をつけた。
 1909千代田印刷所を創業し、同年末に「洛陽堂」と命名して教養系統の出版業を始めた。最初の出版は竹久夢二の画集である。他に有島生馬の代表作「蝙蝠の如く」、津田左右吉「文学に現はれたる 我が国民思想の研究」(全4巻)、「古事記及び日本書紀の研究」、ヴィルヘルム・ミュンヒ「帝王教育思想史」、永井潜「生命論」、「生物学と哲学との境」、高島平三郎「児童学研究」、帆足理一郎「教育哲学概論」、太政官訳「日本西教史」(全2冊)、山本秀煌「日本基督教史」(上下2巻)、木村荘八編「秦西の絵画と彫刻」(全20巻)、山村暮鳥の童話集など、出版総点数は約680冊を出版した。定期刊行もしており、武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎などの同人文芸雑誌「白樺」、恩地孝四郎の版画と詩の雑誌「月映」、木村荘八監修「西洋美術家列伝と作品」、月刊「都会及農村」などである。慢性腎臓炎で日本赤十字病院にて逝去。享年54歳。
 亀之助没後に、妻の河本テル(同墓)が『河本龜之助追悼録』(1921)を発行。田中英夫が『洛陽堂河本亀之助小伝』(2015)を刊行している。関東大震災後に弟の河本哲夫(1887-1978 同墓)が新生堂を創業し、戦後は企業合併によってキリスト教関係の書物を専門とした「新教出版」を創り社長となった。

<河本龜之助追悼録など>


墓所

*墓石は和型「河本家之墓」。左面に河本龜之助、河本哲夫、河本テルの3名の名と没年月日が刻む。右面には河本膳左衛門、河本千春、河本ダイの3名が刻む。裏面は河本俊三、河本緑の2名が刻む。河本家墓石に左隣りに並んで十字を刻み前面「わたしは裸で母の胎を出た また裸でかしこに帰ろう 主が与え主が取られたのだ 主のみ名はほむべきかな」と刻む墓石が建つ。裏面は墓誌となっており関口敏子の名が刻む。左面に「昭和六十年十一月建之 関口實 / 大竹三十子」と刻む。

*亀之助の妻のテル(てる子)とは、1903(M36)結婚。旧姓は鈴木。実子が生まれなかったため、亀之助の妹婿の紅露長三の三女の房江を9歳の時に養女に迎えた(後に猪瀬氏に嫁ぐ)。


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