千葉県小湊(鴨川市)出身。魚の仲買と船宿を家業とする松鷹家に生まれた。旧姓は松鷹。久保角太郎(16-1-2-10)は7歳年下の実弟。両親を早くに亡くしたため、各々養子に出された。
弟の角太郎は宮内省内匠寮に勤務し当時の宗親課長の仙石政敬(12-1-5-17)に認められ仙石家の家臣久保家の養子となり久保家に寄宿しながら義母の 志ん に仕えていた。志んの異常な程の潔癖症と神経症に悩まされていた。'20(T9)悩む弟の角太郎に西田無学の説く佛所護念を教える。角太郎はこれをきっかけに法華経の修行の道に入った。
'25(T14) 喜美と再婚。喜美は17歳で漁師と結婚したが離縁し、「母親に楽な生活をさせてあげたい」という思いから上京して、一生懸命に働き、その評判は出入りの商人たちにも広がり、それが縁で安吉の後妻として迎えられた。お互い再婚同士。当時の喜美は24歳であり、安吉との年齢差は15歳であった。ところが結婚して半年も経たないうちに、安吉は大病(腰痛症)で病床に伏した。高価な注射を打っても、一向に良くならず、喜美は途方に暮れていた。
安吉と喜美が結婚する前年、'24 角太郎は義母の志んの憑きものを特定するために、霊能者の若月チセと出会い霊友会をつくる。そして西田無学の先祖供養法にチセの霊術を加味すれば、人心を捉えて人々の困苦や社会的危機を救済できると確信するようになった。同時に、チセに替わる霊能者を育てる必要を感じていた。まさにその時に、兄の後妻の喜美と出会う。角太郎は喜美を何度も訪ね、法華経の修行をし夫を救うことを説いた。当初は「南無妙法蓮華経」さえ唱えたことがなかった喜美は、角太郎の話を素直に聞くことができなかった。「(治療費で貯金を使い果たし)着物を質に入れて、何にもなくなってしまった。お金を借りるところもない。どうしようもないので、‘主人が生きるか死ぬかなんだからやってみよう’と思ったのです」と回想している。喜美は角太郎の指導のもと、35日間、水をかぶってお経をあげる修行に取り組んだ。すると、安吉の病状が回復し、通常の生活に復帰できるまでになった。
'27(S2)角太郎は修行によって人間の心が持っている様々な可能性に目覚め、特殊な能力をもった特別な人に依らずとも、人は誰でも特定の修練によって心を研ぎ澄ますことは可能であることを確信した。そして、特定の個人の特殊な能力に依存しない誰でも参加できるということにこそ、普遍的な菩薩行の可能性があると信じるようになり、それを証明するためにも、角太郎は安吉と喜美に霊友会の活動に参加するように呼びかけた。これを機に、角太郎の指導のもと、安吉と喜美は「水行」「一部経の全巻修行」「二十一日間の断食修行」など、数々の厳しい修行を繰り返した。この修業が霊友会の礎を築くことになる。
'28(S3)安吉は修行の中で霊友会独特の究(く)呪(じ)神力(「陽の究呪」)を世に顕(あら)わされた。安吉が唯一、此の娑婆に衆魔を払う、神力として、霊界から授けられ遺したのが、「陽の究呪(くじ)」である。例えば「病気治し」の際に、戦前よく行われていた、「エーイッ」とか「エーッス」とか大声で相手に対して送る気合いの「気」の事である。妙法蓮華経(法華経)陀羅尼品第二十六のお経の中の「呪文」(神呪)を唱えながら。相手に対して手で「お究呪」を切る。霊友会独特のもので、安吉がこれを「陽の究呪」として、初めて一大事の因縁を以て此の世に出したものである。
この時期の活動拠点から赤坂霊友会と言われるようになる。以来3年以上にわたる厳しい修行の結果、角太郎が確信していた通り、安吉も喜美も共に極限まで心が研ぎ澄まされた状態に到達したとされている。そして、角太郎と小谷夫妻によって、西田無学らの経巻をベースに西田が時期尚早として読誦を禁じていた法華経本文からの抜粋を含めた、今の霊友会系諸教団が所依の経典としている「青経巻」の原型を完成させた。
'29.12.31 厳しい修行で体力を使い果たした安吉は、この日の夕方に霊界に帰ると友人知人に連絡した上で、その通りに他界したという。享年44歳。辞世の歌「此の世にて救いし道は浅くとも妙(たえ)なる法(のり)の蓮(はす)の台(うてな)に」。
臨終の際に最後の気力を振り絞り自ら筆を取って遺書を書いており、その遺書には「此のたびノヤク此の位ノ修行致たしあ之(の)國にゆく・・三年タテバ又此の又我國ニ生レルト其時ニア江(え)ル此の世のヤクオハタシをも以(い)のこす事なしかなたの来世に又はたらくみな一同にたのむ我カ江(え)ルなり」と書かれた。
安吉没後、'30.7.13(S5) 角太郎と喜美は大日本霊友会の発会式を行った。これは、正式には当時まだ併存していた赤坂霊友会と若月チセの南千住霊友会と戸次貞雄の福島霊友会の三つの霊友会合同の発会式という事になってはいたが、若月と戸次は参加せず、実質的には赤坂霊友会のみによる発会式となった。霊友会は理事長が久保角太郎、会長に小谷喜美が就任した。なお若月チセの南千住霊友会は後に日蓮宗法智教会、戸次貞雄の福島霊友会は日本敬神崇祖自修団と、霊友会とは別団体として活動することになる。
*芝生の丸い墳丘墓の上に建つ白木のお宮が小谷安吉の墓である。お宮の中には白木の巨大な柱が建ち、久保角太郎が付けた十五文字の法名「仁生院法慈文殊寳印輝道智德善士」と墨書されている。小谷安吉の祥月命日は、毎年十二月三十一日の年末の大晦日であり、午前十時より、東京都港区麻布台にある霊友会の本部釈迦殿にて祥月命日の「ご法要」が営まれている。またこの日は、お宮の扉も開かれ香華が手向けられる。墓所内には左側にもうひとつお宮が建つ。
*左隣りの高柳家墓所を挟み、霊友会の信者参拝用の白木のお宮二つ、その隣りが弟の久保角太郎の墓所が建つ。久保角太郎墓所、隣りの信者参拝用の白木のお宮、そして小谷安吉の墓所は宗教法人霊友会の法人名義にて墓守りをしている。
*妻で霊友会長を務めた小谷喜美の墓所はここではなく、静岡県賀茂郡東伊豆町、遠笠山にある霊友会の関連施設である青年部の修練道場「霊友会 弥勒山」の山麓に「恩師小谷喜美先生御廟所」が建ち、分骨されることなく全ての遺骨が納められている。これは小谷喜美の遺言により弥勒山に埋葬されたとのことである。また小谷喜美の生誕地である神奈川県三浦市下金田町にある実家の飯田家の菩提寺は、金田山円福寺(浄土宗)であり、小谷喜美の巨大な墓所が造営されているが、この墓所には小谷喜美の「遺髪」と「爪」のみがお納められている。