神奈川県三浦市南下浦町出身。飯田家の長女として生まれる。貧農であり、小学校を中退して働き始めた苦労人。17歳で漁師と結婚するも離縁し、「母親に楽な生活をさせてあげたい」という思いから上京して、一生懸命に働き、その評判は出入りの商人たちにも広がり、それが縁で小谷安吉の後妻として迎えられた。当時の喜美は24歳であり、安吉との年齢差は15歳であった。ところが半年も経たないうちに、安吉が大病(腰痛症)で病床に伏した。高価な注射を打っても、一向に良くならず、喜美は途方に暮れていた。
安吉の弟の久保角太郎(16-1-2-10)と出会ったのはそんな折で、資質を見込んだ角太郎は喜美に法華経の修行をし夫を救うことを説いた。当初は「南無妙法蓮華経」さえ唱えたことがなかった喜美は、角太郎の話を素直に聞くことができなかった。喜美の回想では「(治療費で貯金を使い果たし)着物を質に入れて、何にもなくなってしまった。お金を借りるところもない。どうしようもないので、‘主人が生きるか死ぬかなんだからやってみよう’と思ったのです」。喜美は角太郎の指導のもと、35日間、水をかぶってお経をあげる修行に取り組んだ。喜美は幾度となく角太郎に反発しぶつかりもしたが、角太郎は喜美に「誰でもできることは修行じゃないよ。できないことを修行するのがこれが行なんだ」と諭され、水行と経行を繰り返す。すると喜美が安吉の体をさすると、しばらく経つうちに安吉の痛みはとれ病状が回復し、通常の生活に復帰できるまでになった。
角太郎は安吉と喜美に霊友会の活動に参加するように呼びかけた。これを機に、角太郎の指導のもと、安吉と喜美は「水行」「一部経の全巻修行」「二十一日間の断食修行」など、数々の厳しい修行を繰り返した。この修業が霊友会の礎を築くことになる。'29.12.31 厳しい修行で体力を使い果たした安吉は他界。安吉没後、'30.7.13(S5) 角太郎と喜美は大日本霊友会の発会式を行い、理事長は角太郎、会長に喜美が就任した。
信者の両家の先祖を供養する総戒名を与え、その法名を記した「霊鑑」を信者の家に祭って「法華経」を唱えて供養し、徹底した懺悔滅罪により悪い因縁を切り、霊の加護で救済されるという布教方法が確立。角太郎の指導力と、喜美の霊能力により発展。その後も、法華経信仰に弥勒信仰を持ちこむなどして霊友会は新興宗教中最大となる。その中で法華経を軽視する発言に相容れないものを感じたと、庭野日敬らが離脱して立正佼成会を創設したりと一部の分派が出る。
'44 角太郎が死去し、小谷喜美中心の体制になると、戦争激化に苦悩する主婦層の心をつかみ急速に信者数を増やした。戦後も小谷喜美の強烈なカリスマ性のもと、大々的に教線を拡張させていった。しかし、喜美の指導方針に対する疑問や反発、'49 脱税容疑、'53 赤い羽根募金事件などの社会不祥事や中傷報道が重なり、多くの分派が発生することになった。
'48 菱沼甚四郎が大乗教団、'49 吉岡元治郎が霊法会、鹿島俊郎が善明会教団、'50 関口嘉一とトミノ(共に3-1-25)が佛所護念会教団、長沼銀次郎が博愛同志会、小野太郎が妙法教、菅原国明が浄妙教団、齋藤豊吉と千代が法師宗、宮本ミツが妙智會教団、'51 石原保助が大慧會教団、佐原忠太郎と俊江が妙道會教団、山口義一が正義会教団、'53 竹本千代が瑞法会(後に中谷義雄がGLA関西本部)、岩楯岩吉が大慈会と分派した。霊友会における分派の特徴は支部長クラスが配下の会員を従えて独立している点である。支部長とその支部会員は組織的な親子の関係で、親である支部長が脱会すれば、子である会員はそれに従うという構造である。通常であれば分派が相次ぐたびに信者数を減らして縮小するところであるが、喜美率いる霊友会は高度経済成長期に躍進し、信者数は当時よりも大きく伸長している。
晩年の喜美は角太郎の二男の久保継成を教団の後継者として育成した。'71 喜美が他界。享年70歳。喜美没後、二代目会長に久保継成が就任。教学の刷新や教団機構の近代化を進めたが、女性スキャンダルが表面化するなど批判され、'93(H5)霊友会会長を辞任。教団内での巻き返しをはかり、'96 会長復活宣言を行ったが混乱し内紛状態となり、2004 久保継成は分派独立し、在家こころの会を結成した。
【小谷喜美の墓と霊友会の供養】
1964(S39)「青年を育てることこそが、世界平和の実現に貢献する道である」と、小谷喜美が弥勒山(みろくさん)を建立。静岡県賀茂郡東伊豆町、遠笠山にある霊友会の関連施設である青年部の修練道場「霊友会 弥勒山」の山麓に「恩師小谷喜美先生御廟所」が建ち、分骨されることなく全ての遺骨が納められている。これは小谷喜美の遺言により弥勒山に埋葬されたとのことである。また小谷喜美の生誕地である神奈川県三浦市下金田町にある実家の飯田家の菩提寺は、金田山円福寺(浄土宗)であり、小谷喜美の巨大な墓所が造営されているが、この墓所には小谷喜美の「遺髪」と「爪」のみがお納められている。
霊友会は教義において、先祖は夫婦同格であり、両家の先祖供養をする。今まで先祖供養というと「家」を対象としたものであり、その家に嫁ぐと、夫の先祖は供養できても、妻の先祖は供養できなかった。霊友会の先祖供養によって、はじめて自分の手で、夫と妻の両方の先祖供養ができるようになる。
また「総戒名」というものをつくり、独身であれば両親に、結婚していれば夫婦の双方につながるすべての先祖をまつる。さらに、身近な先祖はもちろん、代々さかのぼった先祖、水子や亡くなった子ども、縁のある物故者の氏名と戒名をできるだけ集め、その方々に霊友会の法名をつけ、過去帳に載せ、子孫が自分の手で供養する。