漢詩人の国分青厓(同墓)の妻。孫に土木工学者の国分正胤(同墓)がいる。 1893(M26)与謝野鉄幹(11-1-10-14)らにより短歌結社『浅香社』が創設されるや、それに加わり、鉄幹、尾上柴舟(6-1-16-23)、落合直文、鮎貝塊園、大町桂月、金子薫園らと和歌の革新を模索し近代短歌結社の草分け的存在となった。 1894東京女学館の国語科教師として着任。1912(M45)女学館の卒業の歌を作詞した。作曲は音楽教師の大山たま。 当時、女学館には校歌がなかったため、女学館を象徴する歌として親しまれた。校歌が作られたのは1948(S23)である。 主な著書に『家庭日用婦女寳鑑』『日本女礼式』『婦女普通用いろは字類』『日用宝鑑貴女の栞』などがある。
<コンサイス日本人名事典>
*墓所内墓誌に下記が刻む。「この家系は國分五郎胤通に発する第十五世盛氏の舎弟國分盛基を遠祖とする。後に故ありて横澤と改姓するも明治初年に國分姓に復す。國分胤久嫡子高胤(号青厓)以降居を東京に移す。平成三年墓地環境整備により改葬す。」 *国分青厓、国分操子、国分正胤らは、墓誌ではなく、墓石の裏面に刻む。なお、国分青厓は本名の国分高胤として刻む。 *国分青がいの「がい」は「崖」から「山」を除いた文字です。
国分青厓、 国分正胤、 与謝野鉄幹、 尾上柴舟