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こじま たかのぶ

児嶋高信

こじま たかのぶ

1896(明治29)〜 1947.8.12(昭和22)

大正・昭和期の朝鮮総督府官僚

埋葬場所: 16区 1種 15側

 京城出身。父は大韓医院薬局長を務めた児嶋高里(1860-1942 同墓)。1909(M42)京城中学校(当時の正式名は京城居留民団立京城中学校)開校と同時に2年生として入学。
 その後、朝鮮総督府に入り、様々な要職を経て、'27(S2)商工課長時代に朝鮮に於ける度量衡(測る単位)をメートル法への移行を実施した。 これは前年(T15)に発布されたメートル法実施を更に呼びかけ浸透させるためである。'31.5.30財務局理財課長・朝鮮金融組合協会理事を務めていた時に、金融組合記念日を迎えてまだ組合になっていない人たちに対し預金の勧誘を呼びかけた。
 '36.7.30〜'40.3.9 第14代咸鏡北道知事に就任。咸鏡北道(かんきょうほくどう、ハムギョンプクト)は、日本統治時代の朝鮮の行政区画の一つ。現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の咸鏡北道・羅先直轄市と、両江道の一部を合わせた地域にあたる。
 '40.3.9〜'46.1.30第6代李王職に仕える李王職次官となり、'45.3.10〜5.16 第8代李王職長官に就任した。長官時代は次官も兼務。長官は李王職の事務を総理して職員を指揮監督する勅任官のことである。敗戦で朝鮮総督府解体により解散。享年51歳。
 妻は峰子(2011.2.22(H22)105歳歿 *峯子とも)。妻の父は陸軍少将の永山元彦。姉の久子(ひさ)はマレーの虎・陸軍大将の山下奉文(16-1-8-6)に嫁ぐ。 高信と峰子の仲人を務めたのは、津野田是重・菊以(7-2-14-13)夫妻。菊以は信州財閥で政治家の小坂善之助(8-1-13)の娘で、津野田是重陸軍少将の後妻。


*墓石は和型「兒嶋家之墓」。墓石の両面が墓誌となっており、高信・峰子は左面に俗名、没年月日、行年が刻む。なお、父の児嶋高里(こじま こうり)は右面に刻む。


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