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かみかわ まつこ

神川松子

かみかわ まつこ

1885.4.28(明治18)〜 1936.10.17(昭和11)

明治・大正・昭和期の社会運動家、ロシア文学研究家

埋葬場所: 12区 1種 17側 2番〔西川家〕

 広島県広島市大須賀町出身。神川渉・サトの6女。本名は西川マツ。神川は旧姓。 生家は裕福で可愛がられ育てられ、ミッションスクール広島女学校に進学、学校きっての秀才として校友たちから敬愛された。
 1903(M36)日本女子大学に入学。平塚らいてうと同期生。この頃すでに社会主義による理想社会主義実現の抱負を持ち、一年足らずで中退。 青山女学院に入学し直して、英語、ロシア語を学び、二葉亭四迷に師事する。在学中、平民社に出入りして幸徳秋水、堺利彦らと交流し、社会主義婦人講演会などで演説する。 '05.1平民社婦人部の一員として堺タメ、寺本みち子らとともに、治安警察法の女子の政治結社加入禁止と政治集会禁止条項の改正請願の署名運動を行う。 平民社解散後、幸徳や堺らの金曜演説会に参加し、福田英子主宰の『世界婦人』にも多数寄稿。菅野すがとも親しく交際する。
 '08.6(M41)赤旗事件で検挙され、拘留中に拷問をうける。二か月後に無罪で釈放された。この事件により松子は一躍有名となった。 赤旗事件とは筆禍事件で投獄されていた山口孤剣の出獄歓迎会が開かれた際、閉会直前に荒畑寒村と大杉栄が赤旗を振って街路に出ていった。 たちまち官憲ともみあいになり、会場にいた男性のみならず女性の菅野すが、小暮れい子、大須賀里子も検挙された。松子は検挙された人びとに面会に行って捕縛されたのだった。 松子は獄中でも意気軒昂、治安警察法違反などでの公判にも警官のでたらめな証言を鋭く追及し、判決で無罪となった。出獄後いったん帰郷して再上京。新宿柏木に住み、社会主義者との交流を続ける。
 '09兄の友人の西川末三(同墓)から長年のプロポーズを受け入れ結婚し、西川姓となり、末三の勤務地の台湾に渡る。 末三との間に1男6女を儲けた。'14末三は風土病を罹りやむなく一家で帰国。
 結婚後は社会主義から離れ、ロシア文学研究に没頭していた。元々青山女学院時代から二葉亭四迷に師事しており、二葉亭四迷没後は昇曙夢(11-1-7)にロシア文学を学んだ。 後にノーベル文学賞を受賞するイワン・ブーニンの日本への最初の紹介者となる。詩人であり小説家でもあったブーニンの作品を多数翻訳し、「新潮」や「露西亜評論」「早稲田文学」などに載せている。 『トルストイ全集第51』の翻訳なども手掛けた。一方、求められて数多くの評論を雑誌に執筆。特にロシア革命に大きな期待と関心も寄せていたこともあり、「婦人公論」「第三帝国」などに女性解放に向けての鋭い発言など社会主義的な評論も掲載している。
 '20.3.28(T9)新婦人協会発会式に参加し、石田友治らとともに会則検討委員となった。しかし、再び積極的な女性運動家へ戻ることなく、翌月、夫の末三がイギリスのロバート・オーエンに学び、また松子の思想を大きく反映した日本最初の生産組合、協同組合経営方式による測量機械會社の「測機舎」を設立。 '25世田谷区三宿に会社が移転し、広い土地に社員住宅が次々と建てられ、「測機舎村」と呼ばれた。松子は社員の妻たちに「昼の弁当は一つの釜の飯を食べよう」と呼びかけ、社員の妻たちによる給食も行われた。 これら『測機舎を語る』(1935)という著書にまとめ刊行するほど、晩年は測機舎を助け奔走したが、刊行の翌年に逝去。享年51歳。

<講談社日本人名大辞典>
<日本女性人名辞典>
<新婦人協会の人びと>


墓所

*墓石は南無妙法蓮華経と刻む五輪塔、台座に「西川家」。五輪塔の後ろに「西川家供養塔」が建つ。右側に墓誌があり、「西川マツ 會祖母」と刻む。戒名は松操院明徳日光大姉。

*長男の西川誠幹の子で孫は、銀行家で金融学者として神戸大学大学院教授をつとめた西川永幹(同墓)。

*「西川松子」と人名辞典に掲載されていることもある。


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