東京帝国大学農科大学卒業。卒業後、同大学の助手となり、大学の台湾演習林の主任となり、台湾に渡る。
友人の妹で社会運動家として活動をしていた神川松子(同墓)に長年プロポーズをし、1909(M42)ついに松子が受け入れ結婚。台湾で生活をする。'14末三が風土病を罹りやむなく一家で帰国。
帰国後は、大学の研究員を辞し、招かれて日本最初の測量機メーカーに入社。しかし、労使紛争が起きた際、志を同じくする十数名とともに退社し、'20(T9)末三はじめ同志13人が、1700円を出資して、青山に測量機械會社の「測機舎」を設立した。
測機舎(そっきしゃ)は一般の会社とは異なり、労使関係をなくすために生産者協同組合経営方式をとった。これは日本最初の生産組合といわれている。
イギリスのロバート・オーエンに学び、働く者の労働を労務出資とし、これを主体として、経営者・理事を従業員全員で選出する労働団体を組織、労働者自ら工場を創設経営するというそれまでにない形態での組織である。この経営理念には、妻である松子の思想が大きく反映していた。
当時は測量機械のほとんどを輸入に頼っていたが、創業の目的は外国製品に負けない測量機械をつくるということであり、会社は大きく成長していった。
'25世田谷区三宿に移転し、広い土地に社員住宅を次々と建て「測機舎村」をつくる。松子の呼びかけで社員の妻たちによる給食も行われた。松子は『測機舎を語る』(1935)という著書も刊行するほど助力していたが刊行翌年に逝去している。
'43株式会社に組織変更し、戦後'48企業再建整備法による特別経理會社の指定を受け、'52角度計その他の計量機の製造許可會社となる。
'63東京証券取引所市場第二部に株式上場。80年代の海外進出、'89第一部に株式上場へとつながる下地をつくり世界的企業へと成長させた。享年92歳。
末三没後の測機舎は、昭和期バブル時期に最高潮を迎えグローバル化した。平成期に入り、'90ブランド名を「SOKKIA」(ソキア)に変更、'92商号を株式会社ソキアに変更。
2002神奈川県厚木市に本社を移転。2008トプコンの完全子会社となり、商号を「株式会社ソキア・トプコン」に変更、それに伴い東京証券取引所上場を廃止となり、現在に至る。