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がんとれっと つね

ガントレット恒

がんとれっと つね

1873.10.26(明治5)〜 1953.11.29(昭和28)

明治・大正・昭和期の婦人運動家

埋葬場所: 10区 1種 8側 47番

 愛知県碧海郡箕輪村(安城市)出身。山田謙三の長女として生まれる。旧姓は山田。恒子と表記することもある。作曲家の山田耕筰(西多摩霊園A区6)は弟。母方の叔父の大塚正心の感化で信仰と社会事業に早くより目覚めた。
 叔父の希望で、1878(M11) 5歳で英女学家塾(後の桜井女学校)に入り櫻井ちかの薫陶を受ける。櫻井ちかは北海道で別の学校を作ることになり去り、代わりに赴任してきたのが、生涯に渡り尊敬する師匠となる矢嶋楫子(3-1-1-20)であった。桜井女学院は他の女学院と合併し女子学院と改称。矢嶋楫子との初対面「仲良くしましょう」と言われ、恒は「いやです。先生は桜井先生のようにきれいでいらっしゃいませんから」と返答した逸話がある。しかし二人は以後、半世紀近く婦人活動を共にする同志となる。
 卒業後は前橋共愛女学校(共愛学園)に赴任。この頃、父は事業の失敗から急に弱りだし、寝込んだため、実家の家計を助けるため、給料のほとんどを仕送りしていたという。しかし援助もむなしく、父親は44才の若さで亡くなった。
 1893 矢嶋楫子が中心となり結成された矯風会の禁酒・廃娼・平和を目指す社会運動に強く賛同し主要メンバーとなった。共愛女学校の同僚のミス・パーミリー(Parmelee,H.F.)と生活を共にし、信仰生活の転換を体験、群馬県下の伝道に同行している。1895 パーミリーに誘われ軽井沢に訪れた。そこで東洋英和学校の英語教師をしていた、イギリス・ウェールズ出身のエドワード・ガントレットと出会う。親交を深めたある日、パーミリーからエドワード・ガントレットとのことを聞かれた際に、即座に「私は西洋人なんかと結婚しませんよ」と答えたという。一か月後、正式に本人からプロポーズを受けるも恒の返事は同じであった。ところが、叔父の大塚正心が身体の弱い恒は、日本人家庭を切り盛りするよりも、外国人との家庭の方が向いていると二人の結婚に賛同したため、気持ちが揺らぎ始める。
 当時は「らしゃめん(洋妾)」という言葉が使われていた時代であり、外国人との結婚は「罪悪」とさえみなされており、実際、外国人と正式に入籍という形をとって結婚している日本女性は少なく、女性は周囲から白眼視されていた。恒はエドワード・ガントレットとの結婚を周囲の人に相談をするも、母親は泣きながら結婚するなら親子の縁を切ると言われ、母校の宣教師たちも反対。最後に矢嶋楫子に相談をしたところ「私は大賛成です。あなたのような身体の弱い人に、やさしく保護してくれる人の与えられたことは幸せです。日英間の強い正しい一つの楔(くさび)とおなりなさい。祈っています」と言われ、結婚を決意した。
 1898.10.27(M31)エドワード・ガントレットと聖アンデレ教会で結婚式を挙げた。母は当初は出席を拒むも、何とか教会には来て参列するもうつむいて座ったままであり、母校からの参列者はほとんどいなかった。そんな中、矢嶋楫子は堂々出席。式が終わり、入籍しようと本郷区役所で届けを出そうとするも、外国人との結婚は先例がないと拒否され、近隣の区役所を片っ端から訪問するも、どこも受理してくれなかった。困り果て、外国人法律家に相談し、エドワードの母国であるイギリスに結婚の許可を求めることにし、挙式から四か月後、1899.2 結婚が認められ、恒はイギリス国籍となった。これは正式に法的手続きをして外国籍を取得した日本最初の事例となった。
 1901 夫の任地、岡山県及び山口県に15年間居住し、山陽高等女学校で英語とオルガンを教え、また宣教師の通訳として伝道に協力。この頃には結婚に反対していた母親は、優しい婿にすっかり心を許し、弟の耕筰はエドワードの弾くオルガンなどをきっかけに音楽に興味を持ち、やがて音楽の道を歩むことになるも、恒は反対したが、エドワードは耕筰の才能を認めて支持をし続けた。
 夫が東京商業高等学校に招かれたため、15年ぶりに帰京。2男4女の子育てに追われながらも、英語教師として教壇に立ち、矯風会の活動も行う。'20(T9)ロンドンで矯風会万国大会が開催されるに当り、日本代表として出席。その時、87歳の矢嶋楫子も自分も一緒に行くと言い出したため、高齢で心配したが連れて行っている。
 その後、婦人選挙権獲得運動、世界平和のため重要国際会議出席を重ね、国際舞台で大いに活躍した。'34(S9)汎太平洋婦人会議で会長に選ばれ、のち名誉会長に推された。日本婦人参政権協会、日本婦人平和協会、基督教平和協会などにて活躍。
 第二次世界大戦がはじまり、夫エドワードとの母国と日本は戦うことになってしまう。恒も運動家として活動していたためマークされ、特別高等警察が家を見張るようになった。そのため、1940 日本に帰化し名前を「岸登烈」にした。
 戦争を乗り越え、戦後は矯風会会頭に就任。戦後急に増えた国際結婚に関して、その先駆者として意見を求められる機会が多くあり、そのたびに恒は「たとえ(それが)恋愛による結婚であっても、相手を包み込む努力というのが、双方でいります」と伝えていた。'48 金婚式を迎える。翌年『自伝七十七年の思い出』を出版。女性の解放や平和運動に力を尽くした人生であった。享年80歳。

<日本女性人名辞典>
<日本キリスト教歴史大事典>
<国際結婚の楔となったガントレット恒子の生涯>


*墓石正面は「GAUNTLRTT」。裏面は墓誌となっており、上から二番目が恒「CONSTANCE TSUNE 26.Ost.1873-29.Nov.1953」、上から三番目が夫のエドワード「GEORGE EDWARD LUCKMAN 4.Dec.1868-29.July.1956」。

*エドワードと恒の2人の間には2男4女の6人の子供を儲けた。長男のオーエン(John Owen Gauntlett:1906.3.1-1988.9.21:同墓)は戦前は英語講師、フルート奏者として活躍し、戦後に国籍に関しての裁判を行いガントレット事件として注目された。戦争中カナダにいた長女フランセス(同墓)は、戦後は日本に戻る。次女のキャスリンは英国の修道院附属学校の教師となる。次男のトレバー(Trevor:1917.1.28-1988.6.11:同墓)は記者として活躍。三女のウィニー(日本名は和子:新渡戸稲造の養女)は子爵の土井利章(1-1-2-8)に嫁ぎ、3人の子育てをしながら英語教師を務めた。四女エイミーは戦後、宣教師の夫とともに夫の故郷の南アフリカのヨハネスバーグや日本で教会活動を行いながら2児を育てた。

※2011年、イギリス・ロンドンのジャパン・ジャーナルズ リミテッドの週刊「ジャーニー」編集室より連絡をいただき、ガントレット恒の生涯を特集するにあたり協力しました。オンラインで閲覧ができる。



第385回 正式に法的手続きをして外国籍を取得した日本最初の人
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