メイン » » » ジョージ・エドワード・ラックマン・ガントレット
Gauntlett, George Edward Luckman

ガントレット,G.E.L

エドワード・ガントレット
Gauntlett, George Edward Luckman

1868.12.4(明治1)〜 1956.7.29(昭和31)

明治・大正・昭和期の英語教師、音楽家

埋葬場所: 10区 1種 8側 47番

 ウェールズ・スワンシーの名家に生れたイギリス人。当地の小学校を卒業後、ブライトンの中学校で学び、のちロンドンに出て美術学校に入学した。 1891(M21)来日し、東京高等商業学校、千葉中学校、麻布中学校で英語を教えたのち岡山に赴任、岡山第六高等学校英語教師に就任。 同校に6年間在職、ついで金沢に転じ金沢第四高等学校の英語教師となった。さらに山口高等商業学校英語教師となり、8年6ヶ月山口に滞在した。 1919(T8)東京に転じ立教大学非常勤講師として'36(S11)まで在職、英語などを教えた。
 彼は商業英語や速記、英習字等の実用英語の教授法をわが国に導入し、また英語のほかにも、岡山第六高等学校に在職中に学生達にエスペラント語を教え、1906年にはエスペラント協会の結成をみるに至った。 そのうえ音楽にも堪能で、東京本郷の中央会堂に備えられた、当時わが国で最大のパイプ・オルガンの演奏も担当した。 1898年日本女性山田ツネと結婚、彼女の実弟は山田耕筰(作曲家)であり、長男のJ.O.ガントレットも青山学院大学で英語を教えるかたわらフルート奏者として活躍するなど、音楽一家であった。 東京で死去。生前、日本政府より勲五等瑞宝章が贈られた。

<来日西洋人名事典・増補改訂普及版>
<MATSU様より情報提供>


【正式に法的手続きをした国際結婚】
 山田恒(恒子)は共愛女学校の教師をしていた。同僚のミス・パーミリー(Parmelee,H.F.)と生活を共にし群馬県下の伝道に同行するなど活発に活動。1895(M28) 恒はパーミリーに誘われ軽井沢に訪れる。そこで当時東洋英和学校の英語教師をしていた、エドワード・ガントレットと出会う。これをきっかけに二人は親交を深めていく。
 ある日、恒はパーミリーからエドワードのことを聞かれた際に、即座に「私は西洋人なんかと結婚しませんよ」と答えたという。その一か月後、エドワードは真剣に恒にプロポーズしました。しかし、恒の返事は西洋人とは結婚できないでした。当時は「らしゃめん(洋妾)」という言葉が使われていた時代であり、外国人との結婚は「罪悪」とさえみなされており、実際、外国人と正式に入籍という形をとって結婚している日本女性は少なく、女性は周囲から白眼視されていた。
 諦めきれないエドワードは恒の叔父の大塚正心に相談。大塚は賛同し恒に、「身体の弱い恒は、日本人家庭を切り盛りするよりも、外国人との家庭の方が向いている」と結婚を後押ししたため、恒に気持ちが揺らぎ始める。恒もエドワードとの結婚を周囲に相談をするも、母親は泣きながら結婚するなら親子の縁を切ると言われ、母校の教師や宣教師たちも反対。最後に恩師の矢嶋楫子に相談をしたところ「私は大賛成です。あなたのような身体の弱い人に、やさしく保護してくれる人の与えられたことは幸せです。日英間の強い正しい一つの楔(くさび)とおなりなさい。祈っています」と言われ、結婚を決意した。
 1898.10.27(M31)エドワードと恒は聖アンデレ教会で結婚式を挙げた。恒の母は当初は出席を拒むも、何とか教会には来て参列したが終始うつむいて座ったままであり、また恒の母校からの参列者はほとんどいなかった。そんな中、恒の恩師の矢嶋楫子は堂々出席。式が終わり、入籍しようと本郷区役所で届けを出したが、外国人との結婚は先例がないと拒否される。近隣の区役所に片っ端から訪問するも、どこも受理してくれなかった。困り果て、外国人法律家に相談し、エドワードの母国であるイギリスに結婚の許可を求めることにした。挙式から四か月後、1899.2 結婚が認められ、恒はイギリス国籍となった。これは正式に法的手続きをして外国籍を取得した日本最初の事例となった。
 その後、1901からエドワードの任地、岡山県及び山口県に15年間居住。恒の家族も共にした。結婚に反対していた母親は、優しい婿にすっかり心を許し、弟の耕筰はエドワードの弾くオルガンなどをきっかけに音楽に興味を持ち、やがて音楽の道を歩むことになる。耕筰の音楽家に対して恒は反対したが、エドワードは耕筰の才能を認めて支持をし続けた。
 第二次世界大戦がはじまり、日本はイギリスと戦争となる。イギリス国籍でありながら日本に住み続ける二人に対して、特別高等警察にマークされることなる。そのため、1940(S15) 二人は日本に帰化し名前を「岸登烈」にした。
 戦後急に増えた国際結婚に関して、その先駆者として意見を求められる機会が多くあり、恒は「たとえ(それが)恋愛による結婚であっても、相手を包み込む努力というのが、双方でいります」と伝えていた。'48 二人は金婚式を迎えた。

<国際結婚の楔となったガントレット恒子の生涯>


*墓石正面は「GAUNTLRTT」。裏面は墓誌となっており、上から二番目が恒「CONSTANCE TSUNE 26.Ost.1873-29.Nov.1953」、上から三番目が夫のエドワード「GEORGE EDWARD LUCKMAN 4.Dec.1868-29.July.1956」。

*エドワードと恒の2人の間には2男4女の6人の子供を儲けた。長男のオーエン(John Owen Gauntlett:1906.3.1-1988.9.21:同墓)は戦前は英語講師、フルート奏者として活躍し、戦後に国籍に関しての裁判を行いガントレット事件として注目された。戦争中カナダにいた長女フランセス(同墓)は、戦後は日本に戻る。次女のキャスリンは英国の修道院附属学校の教師となる。次男のトレバー(Trevor:1917.1.28-1988.6.11:同墓)は記者として活躍。三女のウィニー(日本名は和子:新渡戸稲造の養女)は子爵の土井利章(1-1-2-8)に嫁ぎ、3人の子育てをしながら英語教師を務めた。四女エイミーは戦後、宣教師の夫とともに夫の故郷の南アフリカのヨハネスバーグや日本で教会活動を行いながら2児を育てた。

*山田耕筰の自伝『若き日の狂詩曲』(1950)には、エドワードが日本にピンポン(卓球)を紹介した人物であり、1901.7 耕筰が15歳の時に姉夫婦を頼って岡山の地に共にしたとき、義兄の相手役をつとめたと記している。その文章は下記。「十五の春、義兄に迎えられて岡山へ行った。(略)序でながらピンポンも義兄が日本へ伝えたもので、従ってまた義兄の相手役をつとめ、その方面でも日本最初のプレイヤァたるの光栄を要求することが出来るだろう」。なお、齋藤裕(Number編集部:2021/03/28)の記事によると、エドワードと山田耕筰が卓球をする約3か月前、1901.3.28 夏目漱石がロバート嬢と卓球をした記録が日付も含めて確認できるため、夏目漱石が日本人初の卓球プレーヤーではないかと考察している。

※2011年、イギリス・ロンドンのジャパン・ジャーナルズ リミテッドの週刊「ジャーニー」編集室より連絡をいただき、ガントレット恒の生涯を特集するにあたり協力しました。オンラインで閲覧ができる。


関連リンク:



| メイン | 著名人リスト・か行 | 区別リスト |
このページに掲載されている文章および画像、その他全ての無許可転載を禁止します。