岡山県岡山市出身。英国籍であったエドワード・ガントレットと恒の長男として、夫の赴任地で生まれる。叔父に作曲家の山田耕筰がおり幼少の頃は一緒に住んでいた。1916(T5)父が東京商業高等学校に招かれたため一家は東京に移住。
1935(S10)青山学院大学、横浜専門学校で英語教師を務める。'37 高千穂高等商業学校でも英語を教える。英語に関する著作も出した。英語教師の傍らフルート奏者としても活動した。戦後、進駐軍の教育部に技術顧問として勤務。
ガントレット一家は元々英国籍であったが、日本はイギリスと戦争となったため、特別高等警察にマークされていた。そこで、1940 エドワードと恒は日本に帰化し「岸登烈」にした。オーエンも太平洋戦争中、1942.5(S17)強迫を受けて無理矢理帰化申請を行い、'43.2.6 帰化が認可された。戦後にその許可について無効であるとオーエンは主張し、日本国を被告に日本国籍不存在確認訴訟を提起した。これは「ガントレット事件(国籍不存在確認請求)」として注目された。
帰化の審査にあたっては、イギリスの1914年の国籍法により、他国に帰化した者は、自動的にイギリス国民ではなくなるから、オーエンは当時の日本の国籍法7条2項5号における重国籍防止条件を充たしていると考えられたようである。ところが、イギリスの1903年の判決によると、イギリス国民は「敵国」に帰化することによって、イギリス国籍を失うことはできないとされており、この判決は、1914年法施行後も、判例法として認められていた。オーエンが帰化を申請した1942(S17)頃、日本とイギリスは戦争状態にあったため、イギリス国籍を失っていなかったのであるから、本件帰化の許可処分は、旧国籍法7条2項5号に違反しており、無効であるとして、日本国籍の不存在確認の訴えを提起した。
東京地裁では敗訴、東京高裁では勝訴であったが、'56.7.18 最高裁大法廷にて、裁判長裁判官の田中耕太郎は下記の判決をした。
「その違法が重大且つ明白である場合は、これを法律に当然無効となすべきではない」として、事件を東京高裁に差し戻した。この最高裁判決は、重国籍防止条件に違反する帰化の許可が違法であるとしながら、外国の判例まで調べることが、きわめて困難であることに配慮したものであった。
その後は英語講師やフルート奏者として活動し、'66.8「日本フルート協会」設立に尽力し、副会長を務めた。
*墓石正面は「GAUNTLRTT」。裏面は墓誌となっており、下から二番目「TOHN OWEN 1.Mar 1906-21.Sept.1988」。
*エドワードと恒の2人の間には2男4女の6人の子供を儲けた。長男がオーエン(John Owen Gauntlett)。戦争中カナダにいた長女フランセス(同墓)は、戦後は日本に戻る。次女のキャスリンは英国の修道院附属学校の教師となる。次男のトレバー(Trevor:1917.1.28-1988.6.11:同墓)は記者として活躍。三女のウィニー(日本名は和子:新渡戸稲造の養女)は子爵の土井利章(1-1-2-8)に嫁ぎ、3人の子育てをしながら英語教師を務めた。四女エイミーは戦後、宣教師の夫とともに夫の故郷の南アフリカのヨハネスバーグや日本で教会活動を行いながら2児を育てた。