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ほりうち さぶろう

堀内三郎

ほりうち さぶろう

1870.1.6(明治2.12.6)〜 1933.12.20(昭和8)

明治・大正期の海軍軍人(中将)

埋葬場所: 13区 1種 22側

 兵庫県多紀郡篠山町(丹波篠山市)篠山藩家老の吉原利恒の三男として生まれる。同藩士・堀内令順の養子となる。旧姓は吉原。弟に外交官の堀内謙介、庭師の堀内延一がおり、俳人の堀内雄之(久雄)は甥。
 鳳鳴義塾、攻玉社を経て、1890.7.17(M23)海軍兵学校卒業(海兵17期)。同期に日露戦争で活躍する秋山真之(中将)、川原袈裟太郎(中将:8-1-15)、田所廣海(中将:2-1-2-1)らがいる。少尉候補生となり比叡乗組、1891.6.4 扶桑乗組、同.10.14 愛宕乗組、1892.6.30 少尉となり呉鎮海兵団分隊士。1893.4.25 天龍分隊士、1895.2.20 和泉分隊士、1895.7.29 砲術練習所分隊士、同.9.19 河野丸乗組で運送船監督、同.12.27 呉鎮守府海兵団分隊士を経て、1896.1.4 水雷術練習所学生として学び、1896.5.11 水雷術練習所分隊士、同.6.5 大尉に昇進し横須賀海兵団分隊長に就任した。
 1897.4.14 浪速分隊長、同.12.1 竹要水雷艇隊艇長、1898.7.30 呉水雷団水雷艇隊艇長を務めた。1899.3.22 海軍大学校甲種学生となるが、義和団の乱により一時退学(1900.6.19)し、1900.6.20 常備艦隊参謀に着任し、同.8.6 常磐分隊長、同.9.25 佐世保鎮守府参謀 兼 艦政部部員を務め、同.12.13 海軍大学校に復学した。1901.5.24 海軍大学将校科甲種卒業(2期)。同期に岡田啓介(9-1-9-3)らがいた。卒業後、同.6.7 呉鎮守府参謀となり、同.12.17 少佐に進み、砲術練習所教官となる。
 '02.1.16 陸軍要塞砲兵射撃校教官を一年間兼ねる。'03.2.3 英国駐在となり渡英し、同.10.4 イギリス海軍大学に入校し学んだ。'04.2.18 日露戦争勃発のため帰朝し、同.4.16 佐世保海兵団分隊長に着任した後、同.4.21 第1艦隊司令部付(香港丸乗組)、同艦隊参謀として一カ月後に出征した。同.12.27 凱旋後は砲術練習所教官 兼 分隊長となる。'05.8.5 中佐に昇進。'06.2.8 海軍大学校教官を兼ねる。
 '08.1.10 第1艦隊参謀、'09.10.11 海軍大学校教官、同.12.1 教育本部第二部員も兼ね、'10.3.19 大佐に進級。'12.4.20 宗谷艦長、'13.5.24(T2)筑波艦長、同.12.1 海軍兵学校教頭 兼 監事長、'14.12.1 教育本部第一部長、第二部長、軍令部参謀、臨時建築部部員を兼ねた。'15.12.13 少将となり第1艦隊参謀長に親補した。'17.12.1 横須賀鎮守府参謀長、'18.7.10 海軍砲術学校長、同.9.4 海軍水雷学校長も兼ね、'19.9.10 練習艦隊司令官を歴任した。同.12.1 中将に累進。
 '20.6.1 将官会議議員、同.8.16 軍務局長を兼ね、'22.5.1 海軍大学校長に就任した。'23.6.1 軍令部次長、'24.2.5 横須賀鎮守府司令長官を歴任し、同.12.1 軍令部出仕。'25.3.2 待命、同.3.20 予備役に編入された。
 その後、財団法人海軍協会副会長を務めた正4位 従3位、勲2等、功4級。享年63歳。

<帝国海軍提督総覧>
<日本陸海軍総合事典>


*墓石は和型「堀内家之墓」、右面「晴嶺院殿白雪浄光大居士、海軍中将 従三位 勲二等 功四級、昭和八年拾貳月貳拾日」、裏面「昭和九年参月廿九日 堀内康雄 建之」と刻む。左面は墓誌となっている。


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