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ひるま けんぱち

比留間賢八

ひるま けんぱち

1867.4.19(慶応3.3.15)〜 1936.4.15(昭和11)

明治・大正期の音楽家、チェロ奏者、
ハーモニカ・マンドリン・クラシックギター・
チターを日本に紹介普及者

埋葬場所: 2区 1種 4側 17番

 江戸麹町の幕臣の比留間安五郎の四男として生まれる。1883(M16)文部省内に設置された音楽教育の研究、音楽教師の育成のための機関である音楽取調掛の伝習生となり、チェロを専攻した。
 1887 卒業後、渡米してニューヨークにてチェロを学ぶ。1889 ヨーロッパに渡り、1891帰国。この時、初めて日本にハーモニカと弦楽器のチターを持ち帰った。1898 ふたたびヨーロッパ、ドイツとイタリアに渡り、マンドリンとクラシックギターと出会う。そして、1901 マンドリンとクラシックギターを持ち帰り、マンドリン・ギター教室を開いて広めた。
 なお、帰国した1901 (M34)に日本で最初のハーモニカ演奏会を開催している。ハーモニカは1827 にドイツのクリスチャン・メスネルによって発明された。日本に輸入されたのは、明治24年という説もあるが、記録に確認できる最初のものは明治31年8月29日の『読売新聞』の広告で、ハーモニカを「横笛」と記して掲載している。比留間の演奏会はこの広告からわずか三年後のことであった。
 ハーモニカだけでなく、マンドリンとクラシックギターの先駆者として普及に尽力し、それらの音楽の源流となった。その門下には音楽家の斎藤秀雄(2-1-4-4:動画有り)をはじめ、詩人の萩原朔太郎、作家の里見とん、画家の藤田嗣治、陶芸家の富本憲吉、華族の徳川義親、武井守成、土方与志などがおり影響を与えた。享年68歳。
 娘の比留間きぬ子(同墓)もマンドリン奏者であり、マンドリン界最高権威者として活躍した。『比留間賢八の生涯』を飯島國男が著し、音楽評論家の属啓成(26-1-33)が推薦の言葉を寄せた。 なお、飯島國男は音楽家であり、比留間きぬ子にマンドリンを師事した弟子である。

<芸能人物事典>
<近代日本の先駆者など>


碑

*墓所正面に「比留間家之墓」、右面「昭和十一年 建之 施主 比留間絹」。左面は墓誌となっており、賢八から始まり、享年は70歳と刻む。次に早死した友次、妻の やす(S36.11.28歿)。裏面に娘の比留間絹と比留間きぬ子は本名で刻む。墓所右側に比留間賢八の碑が建ち略歴が刻む。碑の上部にマンドリンとクラシックギターの絵が刻む。碑の建立者は娘の比留間きぬ子である。墓所左側に5歳で早死(1923.9.20歿)した息子「比留間友次之墓」の小墓が建つ。


撤去警告看板が

※お墓がピンチです! 撤去警告看板が立っています。ご遺族・親族・関係者はすぐに連絡してください。
整理番号01-01003 多磨霊園管理事務所 042-365-2079



第365回 【墓がピンチです!】ハーモニカ・マンドリン・
クラシックギター・チターを日本に持ち込み普及させた先駆者
比留間賢八 お墓ツアー


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