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ひろせ せいそん

廣瀬青邨

ひろせ せいそん

1819(文政2)〜 1884(明治17)

幕末・明治前期の儒学者

埋葬場所: 21区 1種 16側 1番

 矢野徳四郎の次男、廣瀬家の養子。名は範治、字は世叔。1851(嘉永4)廣瀬淡窓はすでに老齢で、その弟廣瀬旭荘も江戸にあり、その子廣瀬林外(同墓)は若年であったため廣瀬家に迎えられ、都講として咸宜園(かんぎえん)を経営した。 文久年間(1861〜63)の頃豊後国府内藩に仕えて旭荘・林外とともに〈三広〉と称せられた。68(M1)東京の漢学所に入り、のち修史局に出仕、廃局後は牛込に東宜園を開いて門人を教授した。 その学は朱子を宗とし、老荘を好んだ。のち華族女学校、山梨県の徽典館でも教授した。

<コンサイス日本人名事典>


*「咸宜園」は広瀬淡窓の後、旭荘・青邨・林外 と受け継がれ、1873(M5)林外の上京後は一時閉塾したが、 1898(M31)旧門弟の村上姑南や廣瀬貞文(同墓)によって再開され、その後も門弟たちが引き継いで教授した。 なお「咸宜園」の出身者で多磨霊園に眠る人物は、明治の学制に貢献した漢学者の長三州(12-1-17-22)がいる。

*広瀬家は「心は高く身は低く」を家風とし、広瀬八賢と称される月化(げっか)・桃秋(とうしゅう)・ 淡窓(たんそう)・秋子(ときこ)・南ガイ・旭荘・青邨・林外などを排出した。

*広瀬家は父の広瀬貞恒は豊後国府内藩など諸藩の御用達であり、その子、広瀬淡窓が儒学者、広瀬旭荘も儒学者、 広瀬久兵衛は殖産家であり、後継ぎが老齢と林外が若かったことにより広瀬青邨を養子として儒学者を受け継がせ、 旭荘の子の広瀬林外が儒学者を継いでいった。

*同墓には、政治家であった広瀬貞文も眠る。

*廣瀬家の墓は青山墓地より改葬

*廣瀬青邨の墓は「青邨廣瀬先生之墓」と刻まれている。

*墓所入り口すぐ右側に写真でも見れるように大きな碑が建つ。これは廣瀬青邨の碑であり、篆額を三條實美、撰文を川田剛、書を長三洲(12-1-17-22)が書いたものであり、青邨の略歴等が記されている。なお、同墓所内にある廣瀬林外の墓の後ろには、林外の碑も建つ。

*広瀬淡窓の墓や咸宜園跡は大分県日田市にあり、国史跡となっている。広瀬旭荘の墓は大坂四天王寺邦福寺から統国寺(天王寺区茶臼山町1−31)に改葬され現在に至る。


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