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ひろせ さだふみ

廣瀬貞文

ひろせ さだふみ

1854(嘉永6)〜 1914.4.15(大正3)

明治期の教育者、法学者、政治家

埋葬場所: 21区 1種 16側 1番

 大分県出身。家塾の咸宜園で漢学を修める。1778(M11)慶応義塾卒。のち刑法、治罪法等法律学を研究。 千葉県属、司法属、大審院書記を歴任後、帰郷し、家塾咸宜園を再興、育英に従事する。 次いで大分県教英中学校長、内務属、埼玉県尋常師範学校漢文科教授嘱託、台湾総督府事務嘱託、日田町長となる。 また上海商務印書館に入り法律書等の翻訳に従事する。政治家としては無所属として大分県第4区選出し衆議院議員の当選5回。

<歴代閣僚と国会議員名鑑>
<MATHU様より情報提供>


*墓所入り口すぐ右側に写真でも見れるように大きな碑が建つ。これは廣瀬青邨の碑であり、篆額を三條實美、撰文を川田剛、書を長三洲(12-1-17-22)が書いたものであり、青邨の略歴等が記されている。なお、同墓所内にある廣瀬林外の墓の後ろには、林外の碑も建つ。

*広瀬淡窓の墓や咸宜園跡は大分県日田市にあり、国史跡となっている。広瀬旭荘の墓は大坂四天王寺邦福寺から統国寺(天王寺区茶臼山町1−31)に改葬され現在に至る。


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