東京出身。本名は橋本正季。父方祖父は陸軍軍属の橋本昌世(最終階級は陸軍歩兵中佐)。母方祖父は陸軍少将・宮内顧問官の田内三吉(7-2-28-29)。父親は陸軍次官などを務めた陸軍中将の橋本虎之助、母は久(共に同墓)の5男として生まれる。
東京高師文科卒業後、陸軍予科士官学校在学中に敗戦を迎えた。1950(S25)東京高等師範学校文科第二部(国語漢文)卒業し、教員となった。しかし、翌年、NHKアナウンサーに転じ、北見放送局、静岡放送局を一年間ずつ勤務。その後、教職に復帰し、1971 まで勤めた。
祖父の橋本冒世が残した「西南の役 従軍日誌」を発見したことを機に、調査執筆に専念。西南の役の文献史料を集め、西南戦争の激戦地・田原坂での戦いを、独自の分析と実証による史眼によって書き起こした『田原坂』(1972)を刊行した。享年44歳。
*墓石は和型「橋本家之墓」、裏面「昭和二十九年六月六日 橋本久 正智 建之」。右側に墓誌。橋本虎之助から刻みが始まる。戒名は清季院玄文昌明居士。
*同墓所には橋本昌樹の五人兄弟が全員眠る。長男は正智(S62.6.20死去・76才)、二男の正勇は2才で早死、三男の正賢は23才で亡くなる(S17.4.27死去)。四男の正禮(H24.12.5逝去・85才)は立教小学校の教諭・教頭を経て新渡戸文化小学校校長を務めた。五男の橋本昌樹は本名の橋本正季で刻む。母の久(M24.9-S38.2.4)の父は陸軍少将・宮内顧問官の田内三吉(7-2-28-29)の二女。田内三吉の長女の多鶴は陸軍中将の山室宗武(15-1-1)に嫁ぎ、四女の みよ は楠瀬熊治の長男の好毅に嫁いだ(楠瀬家:13-1-15-12)ため親戚。