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くすのせ くまじ

楠瀬熊治

くすのせ くまじ

1865.6.8(慶応1.5.15)〜 1933.6.17(昭和8)

明治・大正期の海軍造兵中将、火薬学者、
火薬の品質向上・大量生産に尽力

埋葬場所: 13区 1種 15側 12番

 土佐国土佐郡潮江村(高知県)出身。澤村辰吾の三男として生まれる。旧姓は澤村。1885(M18)楠瀬好静の養子となり家督を相続す。
 1891(M24)東京帝国大学工科大学火薬学科卒業。在学中より技術学生として海軍に入隊し研究に励む。卒業後は火薬研究のためフランス留学。1894 帰国後、海軍省技師となる。呉や横須賀の海軍造兵廠で検査科主幹などを務めつつ、1898より東京帝国大学工科大学講師も務めた。1902 東京帝国大学工科教授に就任して火薬学講座を担当。'03 工学博士。同年、海軍所属でありながら陸軍火薬研究所の所員にもなる。
 '04 造兵少監となり、'05 造兵監督官として英国へ派遣される。'07 造兵中監、'08 帰朝後、'09.4.29 造兵廠火薬部長に着任。'11.1.18 造兵大監に昇進し、下瀬火薬製造所長 兼 造兵廠火薬部長を任ぜられる。
 下瀬火薬とは、熊治の1期先輩の海軍技師の下瀬雅允が開発した火薬であり、砲弾・魚雷・機雷・爆雷といった火器弾薬の炸薬に用いられ、日露戦争の勝因となった火薬である。特に日本海海戦においてはバルチック艦隊を壊滅させた一因となっており、海軍はその戦訓から下瀬火薬を使った種々の砲弾を大量生産する事を決定した。しかし、火薬は海軍造兵廠・火薬部や下瀬火薬製造所がそれぞれ独自に製造しており、熟練作業者がそれぞれの機関で手工的に製造していたため、均一的な品質で大量生産がしにくい状況であった。これに対処するため、火薬の開発・製造を管理する部署でもある海軍造兵廠火薬部の責任者に熊治が着任し、さらに下瀬火薬製造所の所長にも就任してこの問題の対処にあたった。海軍造兵廠と火薬部長を兼任することで両機関で行われる製造作業の詳細を把握・調整し、均一的な品質で火薬が生産されるよう尽力した。
 '14.3.13(T3)海軍技術本部出仕 兼 海軍大学教官を務めた。'15 海軍技術本部技術会議員となり、'16.21.1 海軍造兵総監に進む。
 火薬の品質向上の実現はできたが、大量生産については敷地面積の関係から十分に実現出来なかったため、海軍火薬廠を設立する運びとなる。'19.4.1 海軍が使用する火薬の研究・製造等については海軍が一元管理するという「海軍火薬廠令」が発令された。同令に基づき海軍は、海軍用の火薬を製造している業者を買収する事になり、その対象として日本爆発物製造株式会社の平塚製造所を買収する事にした。艦政本部に出仕し指揮下にある火薬廠の海軍代表として買収契約を締結。買収した平塚製造所を「海軍火薬廠」として発足し、初代 海軍火薬廠長(事務取扱)に就任した。この買収により、敷地面積は約38万坪という広大な敷地を有することになり、問題であった火薬の大量生産を可能にした。
 '19.9.23 海軍造兵少将に昇格。'20.10.8 待命し半年間現場を離れ、'21.4.1 復帰し火薬廠長を引き続き務める。火薬の品質向上・大量生産に尽力。それは各種銃砲弾の大量生産をも可能にさせ国防に大いに貢献した。同.12.1 この功が認められ、海軍技官の最高位である海軍造兵中将に昇進した。
 '23.8.13 艦政本部出仕、同.12.1 待命、'24.2.25予備役。火薬研究ならびに発明改良に貢献した功により、従三位・勲一等瑞寶章を授与された。この間、'23 東京帝国大学を停年退官し名誉教授。
 東京帝国大学で火薬性能を研究する傍ら、海軍省で高爆薬を完成し、下瀬火薬の特徴である無煙火薬の安定度試験法を確立するなど、火薬の発明・改良に大きく貢献。そして高品質な火薬の大量生産体制を確立した人物として、下瀬火薬を発明した下瀬雅允と共に「火薬界の二大功労者」と称されている。

<帝国海軍提督総覧>
<高知県人名事典>
<20世紀日本人名事典>
<大日本博士録>
<【土佐の偉人22】楠瀬熊治:火薬界の功労者>


墓所

*墓石は和型「楠野家之墓」。裏面「昭和八年九月 楠瀬好毅 建之」。右側に墓誌が建つ。墓誌は楠瀬熊治から刻みが始まる。「海軍造兵中将 東京帝國大學名誉教授 従三位 勲一等 工學博士」と刻む。前妻は朝(M28.10.13-S9.3.18)。後妻は静猪(S20.12.17歿・71才:旧姓は下村・高知出身)。二男の楠瀬雄次郎(1898-S20.4.19歿・48才)には「従四位 勲四等 工学博士」と刻む。無線通信工学者として活躍した人物。長男は楠瀬好毅(S47.11.5歿・行年86才)、好毅の妻の みよ(S58.3.10没・83才)の父は陸軍少将・宮内顧問官の田内三吉(7-2-28-29)の四女。好毅の妻の みよ の姉の多鶴は陸軍中将の山室宗武(15-1-1)に嫁ぎ、久は陸軍中将の橋本虎之助(13-1-7)に嫁いだ。楠瀬熊治の長女の芳子は教育者の木村繁四郎の二男で分析化学者の木村健二郎に嫁ぐ。

*下瀬雅允(しもせ まさちか:1860-1911)の墓は染井霊園(1種イ12号2側)にある。



第487回 火薬のスペシャリスト 火薬の品質向上と大量生産に成功
楠瀬熊治 お墓ツアー


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