東京出身。父は海軍中将の川島令次郎、三男として生まれる。弟(四男)の岡崎忠(ちゅう)は岡崎忠雄の婿養子となり、岡崎財閥の2代目総帥の銀行家として活躍した。姉の正は社会政策思想家の桑田熊蔵(7-1-2-5)の長男で倉吉銀行専務など銀行家の桑田一夫に嫁いだ。
東京府立一中、一高を経て、1927.3(S2)東京帝国大学法学部政治学科卒業。同.4 商工省に勤務、同.11 高等文官試験行政科に合格した。'35.5 内閣調査局調査官となり、以後、調査局、企画庁、企画院と、企画院のその改変・拡大時に植村甲午郎(8-1-13)、黒田鴻伍のもとで活動。「革新官僚」、あるいは「経済新体制」組の一人として活躍した。
'37.12 商工省に戻り、機械局一般機械課長、総務課長などを経て、'41.1 総務局に移動、同.5 中華民国の経済顧問に就任した。戦時中は、軍需省秘書課長 兼 内閣総理大臣秘書官、機械局長を歴任した。
戦後、商工省参事官(経済連絡部長)、内閣官房内閣審議室、経済安定本部第1本部長を務め、退官した。退官後は、東京計器製作所の社長、会長。'74〜'77 日本銀行政策委員を務めた。享年75歳。
*墓石正面は「橋井家 / 高橋家 之墓」。右側に墓誌があり、橋井家と高橋家が刻む。高橋は「髙橋」と刻む。橋井新吉(1919.1.14歿)から刻みが始まる。新吉の妻はツル(1976.4.22歿)。商工省官僚を務めた真(海軍中将の川島令次郎の三男)はツルの養子となった。橋井真の戒名は普照院殿念誉真諦浄光大居士。真の妻は宣(1942.2.17歿)。真の娘の迪(みち:1932.9.19-2016.10.28)が英文学者の高橋康也に嫁ぎ、墓所は橋井家と高橋家の合同墓所となっている。
*高橋康也と迪はキリスト教の洗礼を受け洗礼名は、康也はアウグスチヌス、迪はマルガリータ・マリア。なお、高橋迪は津田塾大学英文科を卒業し、夫の高橋康也と共訳をするなど翻訳家として活動した。また息子の高橋宣也はイギリス文学研究家で慶應義塾大学文学部教授。娘の美穂子も上智大学卒業後に翻訳家として活動し、英文学者で東京大学教授の河合祥一郎と結婚。河合祥一郎は義父の高橋康也没後にシェイクスピア研究を受け継いでいる。
※多くの人名事典では没年の月日が11月11日と記されているが、墓誌には11月1日とあるのでそちらを採用する。