東京出身。1927(S2)立教大学在学中、当時立教大学講師のポール・ラッシュ博士を師としていた小川は、早稲田、明治など他大学も含む5大学で個別に活動していたESS(英語会)の学生たちに呼びかけて、学生組織である英語会大学連盟の発起人として設立した。
五番館に出入りしていた明治大学生の松本瀧蔵(16-1-19)も中心メンバーのひとりである。ポールがスポンサーとなって東京の飛行会館で英語劇コンテストを開催された。
また、ポールは小川ら立教大の教え子とともに聖徒アンデレ同胞会を創始し、東京の大学に広めていった。
1929(S4)立教大学卒業。渡米し留学、現地にて本場アメリカで人気スポーツとなっていたフットボールを体験。
'34貿易商務学者として母校の立教大学教授となるとともに、アメリカンフットボール部を創設し部長となる。
同時に松本らが中心となり設立に向けていた明治大学アメリカンフットボール部の創部にポールとともに支援。
10月28日に五番館ボーイズでESS大学連盟をまとめた小川と松本が中心となって、立教大学・明治大学・早稲田大学の3校で、立教大学五番館において東京学生アメリカンフットボール連盟(東京学生米式蹴球連盟)を創立した。
理事長はポールが就任。これが関東学連の歴史の始まりとされる。
競技指導をオハイオ大学で選手経験があるジョージ・マーシャル教授が担当。11月29日に連盟は競技紹介のためエキシビジョン・ゲームを神宮競技場で開催し約1万5000人もの観衆が詰め掛けた。
試合は立・明・早大選抜チームと横浜YCACの外国人チームが対戦した。これが日本で初めてのアメリカンフットボールゲームとされる。
なお、この公開試合の1ヶ月後の12月26日に大日本東京野球倶楽部(現在の読売ジャイアンツ)が創立したため、関東学連の歴史はほぼプロ野球と同時期である。
小川は連盟創設期の防具の国産化を推進するとともに、連盟の総務担当として競技場の交渉と手配にあたるほか、経理も担当し実務的な連盟活動の推進者として貢献。
また、アメリカンフットボール以外でも立教大学にて空手部初代部長('40〜'43)、スキー部第3代部長も歴任した。
第二次世界大戦の勃発で、適性スポーツ・フットボールは中断し、ポールも帰国。1942.5.15シンガポールに昭南興亜訓練所が設立され初代所長に就任(当時は少尉)。
将来マレー各州の有能な現地人官吏を養成する目的で日本軍が作った訓練所であり、マレー各州から選抜された生徒93名の青年に対して教育を行った。
教育は実践躬行で、教官が先頭に立ち、水を汲み、教練の歩調を取り、鍬を振って大地を耕し、教官も生徒もなくお互に抱き合って寝手を握って語り合ったとされる。
小川は「日本精神は理論はいらない。本当に正しい日本人が、己が持てる最高のまごころと情熱を対手に伝える指導者精神を持つという信念が大切である」と説いて指導した。中尉で終戦。戦後は再び立教大学教授に戻る。
1948ポールが再来日し、明治神宮外苑競技場で第1回ライスボウルの幕が切って落とされ、ポールが始球式のキックを行った。
日本一王座決定戦であるライスボウルのMVPに授与される栄誉杯はポール・ラッシュの名を冠している。また、日本フットボールの父と称された。
小川は1963、1969に2年間スパンで2度の日本アメリカンフットボール協会理事長を務めた。この間、'51〜'54立教大学野球部第5代部長も務めた。
日本聖徒アンデレ同胞会顧問。老衰のため逝去。享年95歳。
2004.7.3(H16)功労者としてアメリカンフットボール殿堂入り顕彰者に選ばれた。共にアメリカンフットボールの誕生と発展に寄与した松本瀧蔵も殿堂入りした。また、立教大の後輩でアメリカンフットボールの審判組織の功労者である安藤信和(ご健在:父 安藤信昭 10-1-4)も同じくして殿堂入りした。顕彰プレートは山梨県清里の「日本アメリカンフットボールの殿堂」に掲げられている。その地はポール・ラッシュ記念センターも併設されている。
*墓所は入口正面に十字を刻む貫一族之墓の墓塔。右側に三基建ち、真ん中が洋型墓石に正面に十字、花立右側に「貫」、左側に「小川」と刻む。
墓石の裏面は墓誌となっており、小川徳治と妻の五十子の名と生没年月日が刻む。徳治には「アンデレ」の聖霊名。
左側に「貫元之墓」(M23.3.21没)、右側に「興膳五六郎之墓」(M8.1.2没)が建つ。
*墓所の配置から推察し、この墓所は小川徳治の妻の五十子の家系である貫家代々墓所であり、貫家は興膳家ともつながる家柄であったと考えられる。よって、墓所真ん中に建立された洋型墓石は小川徳治が没した2001年6月建之である。
*ポール・ラッシュ(1897-1979.12.12)は日本で没し、墓所は清里聖アンデレ教会納骨堂。