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こうぜん ごろくろう

興膳五六郎

こうぜん ごろくろう

1829(文政12)〜 1875(明治8.1.2)

幕末期の医師、兄の仇討ち

埋葬場所: 22区 1種 12側

 京都の人。兄の興膳昌蔵はシーボルトについて蘭方医学をおさめ長府藩(長州藩の支藩)の侍医になった人物。自身も医師となった。
 兄の昌蔵は竹島開拓の先唱者でもあり、吉田松陰に開拓を勧め、松陰が「幕府の許可を得て開拓するべきだ」ということを桂小五郎に手紙で伝えたことでも有名(現在の竹島問題の歴史認証でしばしば取り上げられる)。
 1862(文久3.6.12)兄の昌蔵が夷人と密売している(外国船に石炭を密売する松本濤庵を援助)と疑惑をかけられ、阿川毛利家臣の田村内蔵之助によって暗殺された。 英船が長府沖に停泊したおり、宗藩の福原清助と昌蔵の二人が近づいたのを目撃した田村内蔵之助と他一人が昌蔵を暗殺したのであるが、一緒にいた福原清助は暗殺されていない。 昌蔵の暗殺原因はその前に暗殺された中島名左衛門と親しかったためだったとか伝えられているが真相は不明である。
 暗殺から二年後の慶応元年、昌蔵の弟である五六郎は、小月屋という料亭で、兄を暗殺した田村内蔵之助と偶然出くわした。その場で五六郎は田村を討ち取った(仇討ち)。 五六郎は直ちに自訴し、本藩検死役人は田村内蔵之助の死亡原因を「狐狸村の犬」の仕業で決着させたそうだ。五六郎はその後、東京に出、病死。享年47歳。

<キリシタンと十三人塚 武田芳光子など>


墓所

*墓所は入口正面に十字を刻む貫一族之墓の墓塔。右側に三基建ち、真ん中が洋型墓石に正面に十字、花立右側に「貫」、左側に「小川」と刻む。 墓石の裏面は墓誌となっており、小川徳治と妻の五十子の名と生没年月日が刻む。徳治には「アンデレ」の聖霊名。左側に「貫元之墓」(M23.3.21没)、右側に「興膳五六郎之墓」(M8.1.2没)が建つ。

*「興膳五六郎之墓」の裏面は、「明治八年一月二日」と大きく刻み、その左側に小さく「妻 満子 明治三十九年八月十一日逝」、「曾孫 龍子 大正十三年八月八日逝」の刻みがある。

*墓所の配置から推察し、この墓所は小川徳治の妻の五十子の家系である貫家代々墓所であり、貫家は興膳家ともつながる家柄であったと考えられる。 よって、墓所真ん中に建立された洋型墓石は小川徳治が没した2001年6月建之である。


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