東京出身。旧姓有馬。父は筑後国久留米藩主有馬家当主で伯爵の有馬頼方、母の寛子は岩倉具視の娘で森有礼後妻、その次男として生まれる。兄は競馬の有馬記念で名を残している伯爵の有馬頼寧。仏文学者の森有正(3-1-9)は甥にあたる。
武家・磐城平(陸奥)藩・三万石として1884(M17)子爵となった安藤信守の子の安藤信篤の養子となる。信篤没後、子爵を継承するとともに、譜代大名の安藤家で伝承された茶道の御家流(おいえりゅう)である「安藤家御家流」の15代目となる。妻は1915(T4)に婚姻した皇族の閑院宮載仁親王の第1王女である恭子女王(ゆきこじょおう、1896-1992 同墓)。
子爵授爵後は貴族院議員として活動。1936.1.17(S11)実兄の有馬頼寧と協力し、西武鉄道(現在の西武鉄道とは別会社)を運営母体としてプロ野球チームの東京セネタースを結成し、理事長となる。有馬頼寧はオーナー。同年.2.5結成された社団法人日本職業野球連盟(後の日本野球機構)の初代副総裁にも就任。なお、総裁は大隈重信の養子の大隈信常、安藤と同じく副総裁に松方正義の子の松方正雄。この連盟に加盟した日本初のプロ野球球団は、東京セネタースの他、東京巨人、大阪タイガース、大東京、阪急、名古屋金鯱、名古屋の7球団であった。
セネタースは日本語訳で「上院議員」。当時、安藤と有馬が貴族院議員であったため命名された。初代監督に横沢三郎を招く。「名人」といわれた苅田久徳のプレーが観客を魅了し、“セネタース100万ドルの内野陣”と評された。また明治大学のエースであった野口明や、弟の野口二郎の投手力もあり、スマートなチームカラーを看板として人気を得た。本拠地は西武沿線の上井草に球場を作り、後楽園球場出現以前の職業野球の“常打ち球場”としてプロ野球発展に寄与した。戦時下の'41、日本職業野球連盟の理事会で日本語化が決定され、一般公募によりセネタースは「翼軍」に名称を変更。また、相次ぎ主力選手が軍隊へ召集されたことにより、翼軍は名古屋金鯱軍と合併、「大洋軍」と名称を変更、'43経営母体が西日本鉄道に移り、「西鉄」が誕生するが、戦争悪化で解散した。戦後、'45に横沢三郎が中心となり、セネタースは復活するが、安藤はそれに携わっていない。なお、戦後のセネタースはその後、東急フライヤーズ、東映フライヤーズ、日拓ホームフライヤーズを経て、現在の日本ハムファイターズ(北海道日本ハムファイターズ)とつながっている。蛇足であるが、東映フライヤーズのオーナーは大川博(15-1-2-14)である。
子の安藤信和が16代目を継ぐ。信和は日本アメリカンフットボール協会理事長や旧華族の霞会館正式登録者である。