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もり ありまさ

森 有正

もり ありまさ

1911.11.30(明治44)〜 1976.10.18(昭和51)

昭和期のフランス文学者、哲学者

埋葬場所: 3区 1種 9側

 東京出身。曽祖父は岩倉具視。祖父は初代文部大臣・子爵の森有礼、祖母は岩倉具視の5女の寛子。父はキリスト教学者の森明、母は伯爵の徳川篤守の娘の保子(共に同墓)、長男として生まれる。妹の関屋綾子は東京YWCA・日本YWCA会長、世界平和アピール七人委員会委員として平和運動活動家。
 2歳の時(1913)に洗礼を受けてクリスチャンとなる。6歳からフランス人教師からフランス語を学び、後にラテン語も学ぶ。暁星小学校を経て、暁星中学校の時に父の明が死去(1925.3.6)。東京高等学校を経て、1938(S13)東京帝国大学文学部哲学科卒業。パスカルの研究を行い卒業論文としてまとめる。以降もパスカル、デカルトの研究に専念。大学院、副手、助手を経て、'45 東京帝国大学助教授となる。この間、東京女子大学、慶應義塾大学予科、官立無線講習所で講師をつとめ、フランス思想・哲学史を講じた。フランス17世紀哲学・思想の研究に携わり、この研究領域での業績に『デカルトの人間像』(1943)、『パスカル 方法の問題を中心として』(1948)などがある。
 '50 戦後の海外留学再開にあたり、第一陣としてフランスに留学。パスカル、デカルトの研究をしたが、そのままパリに留まることを決意し、'52 東京大学を退職して、パリ大学東洋語学校で日本語、日本文化を教えた。歴史学者となるクリスチャン・ポラックなど教え子を排出。後にパリ大学東洋学部教授。
 渡仏後の最初の著作『バビロンの流れのほとりにて』(1957)は、書簡形式をとりながら、西欧文明との接触によって著者の内面にもたらされた変化を凝視した記録であり、この時期の森が取り組んだ思想的課題を明らかにしている。
 '68『遥かなノートル・ダム』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。『経験と思想』を刊行。人間の生の過程においてしだいに蓄積されてゆく動かしがたい「経験」を重視すべきことを説き、内面的思索力の強靱さを如実に示した。既成の言葉 (名辞) と説明 (命題) だけから成る空疎な構築物を破壊しつくしたのちに、直接に世界と自然に触れることのなかで、唯一、確実な感触をもって重層し、結晶してくるものを「経験」と名づけた。この経験こそ一人の人間を具体的に定義するとし、偶然的に外側から与えられ、機械的に増大する「体験」とは厳密に区別した。『霧の朝』では「体験と異なる本当の経験は正しい理想の上に立つものである」と書いている。
 翻訳にパスカル『田舎の友人への手紙』『幾何学的精神』、リルケ『フィレンチェだより』、哲学者アラン『わが思索のあと』、ブルトウ『パスカル』など多数ある。著書に『ドストエーフスキー覚書』『近代精神とキリスト教』『内村鑑三』『デカルトとパスカル』『流れのほとりにて』『いかに生きるか』『森有正全集』(全14巻、別巻1)など多数ある。
 晩年は文明批評や日本文化論、哲学的なエッセイを多数執筆し注目を浴び、芥川竜之介の短編集の仏語訳もある。'69 国際基督教大学客員教授。この前後より日本に一時帰国することが多くなり、講演や対談、短期の集中講義などを行った。'73 パリ・大学都市の日本館館長に就任。
 '76.3.6 帰国し活動拠点をパリから日本に変更し、国際基督教大学教授に内定も決め、パリに戻った際に、血栓症がもとで、同.8.13 ラ・サルベトリエール病院に入院。約2か月後、同.10.18 同病院にて客死。享年64歳。同.10.25 ル・ベール=ラシェーズ基地にて荼毘に付せられる。次女の聡子とともに遺骨が帰国する。同.11.3 中渋谷教会にて前夜式、翌日にICUのチャペルにて葬儀が執り行われた。
 影響を与えた学者も多く、森有正を題材にした書物も多く刊行されている。辻邦生(10-2-6-11)『森有正 感覚のめざすもの』(1980)、佐古純一郎 『森有正の日記』(1986)、栃折久美子 『森有正先生のこと』(2003)、伊藤勝彦 『森有正先生と僕』(2009)、片山恭一 『どこへ向かって死ぬか 森有正と生きまどう私たち』(2010)、久米あつみ 『ことばと思索 森有正再読』(2012)、広岡義之 『森有正におけるキリスト教的人間形成論』(2015)、鑪幹八郎 『森有正との対話の試み』(2019)などがある。

<コンサイス日本人名事典>
<ブリタニカ国際大百科事典>
<精選版 日本国語大辞典>
<世界大百科事典>
<森有正略年譜>


もり あきら

*墓石前面「森家之墓」、裏面「森明 子爵森有禮三男」と生没年月日が刻む。右側に墓誌が建ち、森明、有正の長女の正子(1944-1945)、明の妻の保子(1888-1959)、明の長男の森有正、有正の次女の聡子(1946-1999)が刻む。

*森有正は、1942(S17)日本人と最初の結婚をしている。どの文献を探しても妻の名前の記載がなく、墓誌にも刻みがないため離縁したものと思われる。1男2女を儲けている。'44 長女の正子が誕生するが、翌年逝去。'46 次女の聡子(としこ)が誕生。また長男の森有順(ありゆき)がいる。'50 有正はパリに留学し、そのままパリに移住。子供たちは母が面倒をみたと思われる。'55 一時帰国。'58 日本においてきた小学生になった次女の聡子を、パリに呼び寄せる。'59.6.4 母の保子が死去。'62 フランス人女性と再婚するが、'72 離婚。離婚した年に長男の有順がパリで挙式をしている。


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