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おおかわ ひろし

大川 博

おおかわ ひろし

1896.12.30(明治29)〜 1971.8.17(昭和46)

昭和期の実業家(東急・東映)

埋葬場所: 15区 1種 2側 14番

 新潟県西蒲原郡中之口村大字羽里(現新潟市西蒲区)出身。先祖は代々床屋を営む。彦太郎・トキの七人兄姉の末っ子として生れた。
 岩倉鉄道学校を経て、中央大学法科卒業。在学中より鉄道院に入り、鉄道省事務官となる。 1942.12(S17)鉄道省の先輩であった五島慶太に誘われ、東京急行電鉄に入社し、東京急行総務局次長となる。 後に、事業部長、専務をへて、'51副社長に就任。
 当時の東急は、'42陸上交通事業調整法により戦時統制下の東京横浜電鉄は合併させられた。 まず、五島が経営していた小田急電鉄と京浜電気鉄道を合併。'44京王電機軌道を合併、'45子会社の相模鉄道の経営を受託した。 五島を総帥に「大東急」(T.K.K)として、東京南西部及び横浜、川崎、横須賀と広範囲の鉄道路線を保有した。 戦後、私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律(独占禁止法)および過度経済力集中排除法が公布されたが、鉄道事業者である大東急は適用対象外となった。 これに対し、後に小田急バス社長となる鶴川一郎を筆頭に旧小田急電鉄従業員が分離独立を求め、この動きが、旧京王、旧京浜でも高まる大東急分裂騒動が起こった。 加えて、路線は空襲による被害が大きく、復旧するための一企業による資金調達も困難であった。公職追放されていた五島は、会社を分けることで復旧が早まると判断し、当時専務の大川に東急再編を託した。 '48.6.1大川が再編成案を起草し、京王・小田急・京急の三社を分離独立させた。
 '47分裂騒動の渦中に、大東急一致団結の旗印としてプロ野球・東京セネタースを買収し、東急フライヤーズを発足。専務の大川がオーナーに就任した。'54東急フライヤーズの経営を東映に委託(その子会社の東映興業に運営を移管)させ、球団名を東映フライヤーズに改称し、引き続きオーナーとして経営にあたる。'62阪神タイガースを破り日本一。またパ・リーグ会長も務めた。
 '51東京映画配給(東映)社長に就任。徹底した予算管理と原価管理を遂行し、多重債務に陥っていた東映の経営を回復さる。 自らもプロデューサーとして携わり、『ひめゆりの塔』や『飢餓海峡』、『旗本退屈男』のヒット作を生み、また時代劇映画の黄金時代を築いた。 鶴田浩二、萬屋錦之助、高倉健、藤純子らの俳優や監督を育て、多くの傑作を世に送りだし、時代劇映画ブームに湧き、業績は好転し1950年代後半には業界NO1となる。
 映画のみならず、テレビ時代を予期し、'56日動映画を買収、東映動画(東映アニメーション)と改称、テレビアニメーションやテレビCM制作を行う。 '59日本教育テレビ(現・テレビ朝日)を旺文社など教育関係者や日本経済新聞社とともに開局。翌年2代目社長に就任(〜'64)。 しかし、本邦初の民間教育放送局として開局した同局の経営は厳しく、対外呼称を「NETテレビ」に改め、総合局化を図り、同局の経営改善に取り組んだ。 60年代は一般家庭でのテレビ普及が増え始め、更なるテレビ文化を築くため、東映テレビプロダクション、東映京都テレビプロダクションなどテレビ番組制作のための子会社を4社設立。 経営の多角化では、ホテル事業、不動産事業に乗り出して、テレビ時代への対応を図った。
 '64東急グループから離脱し、大川は名実共に東映グループオーナーとなる。 歴任した主な役職に日本経済団体連合会常任理事、日本映画産業団体連合会会長、映倫維持委員会常任委員会委員長、東横学園理事、中央大学理事長、中央大学学員会会長などを歴任した。 著書に『この一番の人生』『真剣勝負に生きる』などがある。正4位 勲2等旭日重光章。肝硬変により逝去。享年74歳。
 大川の名言に『幸運といい、不運といい、それは後になって言えることである。 ただ自分がよいと思うところを現実の条件から裏付けし、 あとは勇を鼓して一歩踏み出すだけである』がある。

<コンサイス日本人名事典>
<講談社日本人名大辞典>
<大川博「この一番」など>


墓誌

*墓石は「大川博家墓」の和型。墓所内には大川博の略歴が刻む墓誌碑が建つ。戒名は勝幢院釋博泉大居士。

*新潟市西蒲区中之口にある「中之口先人館」には大川博展示コーナーが設けられ、遺品や資料が展示されている。

*60年代後半から70年代初頭、大川博の息子の毅が将来の社長候補と召され、33歳の若さで専務となった。 晩年の博と共に親子は、斜陽化する映画事業から、ボウリングを主体とする娯楽会社に脱皮させようとし、ボウリング、タクシー、ホテルなどの事業拡大に乗り出すが失敗。 労組が硬化し、部課長連合が大川博に反旗を掲げ窮地の状況となったが、岡田茂の尽力により難を脱す。 博が死去し、毅の懇願もあり、岡田が東映社長(兼 東映動画会長)に就任。岡田は毅が経営し全国32の東映ボウリングセンターの大半を売り、合理化の推進をはかっていった。


【大川とアニメーション】
 大川がアニメーションに目を付けた動機は海外進出(海外輸出)の目論見があったという。「確かに日本の国内では(映画は)うまくいっている。 ところが、日本の映画というのはなかなか海外に出ていくことがない。日本人はたいがいの人が洋画を楽しんでいるじゃないか。何とか、この日本から海外に発信できるものはないか・・・」との考えから始まる。
 1956日動映画(株)を社員ごと買収し、東映動画(株)を発足。 1958東映アニメーションの長編映画第1作目は日本初のカラー長編アニメーション映画『白蛇伝』であり、ディズニー映画のような劇場用長編アニメーション作品の制作を日本で独自に行うことを構想、もとは香港からの持込企画であったため、中国および東南アジア進出用に設定された。 「東洋のディズニーになります」という演説をしたこともある。これに感化され入社したのが、後のジブリ映画の生みの親でアカデミー賞も獲得した宮崎駿である。 なお、東映映画第一期生には大塚康生、楠部大吉郎らがおり、二期に高畑勲ら、多くの日本のアニメ界の巨匠を輩出した。


【大川とプロ野球(東急フライヤーズ・東映フライヤーズ)】
 1947.1.7(S22)東京セネタースを売却し、株式会社東急ベースボール倶楽部を発足。チーム名を「東急フライヤーズ」とした。 売却金額は球団権利金24万円を合わせ、合計35万円。当時は分裂騒動の渦中であった大東急の時代であり、大東急一致団結の旗印としてのプロ野球参入であった。 東急専務であった大川がオーナーに就任。大下弘などの活躍で多くのファンを惹きつけるも球団経営は赤字。
 '48大映が経営に参加し、東急大映野球と球団名を代え、チーム名も「急映フライヤーズ」と改称。翌年、大映が金星スターズを別途買収し経営から手を引いたため、球団名・チーム名を元に戻した。
 '49よりプロ野球が2リーグ分立をしたため、東急フライヤーズはパ・リーグに加盟。'53ホーム球場を後楽園球場から駒沢球場(東急沿線)に移転。
 '54東急から、大川が社長を務めていた東映に球団運営を委託。東映は子会社の東映興業に球団を移管。これに伴い、球団名を東映フライヤーズ野球団、チーム名を「東映フライヤーズ」に変更。オーナーは引き続き大川が務める。大川は大の野球好きであり、よく球場に観戦に訪れた。しかし、チームは弱小な上、観客数も少なく、依然赤字経営であった。
 '61水原茂が読売ジャイアンツの監督を勇退することを知り、フライヤーズの監督招聘に向けて、映画関係の人脈を遺憾なく発揮し、招聘工作に動く。 大川はそれまでオーナーの権限を利用し、大いに現場に口を挟んでおり、水原はその現場への介入に対して懸念を抱き監督就任に消極的であった。 そこで大川は「金は出すが口は出さない」と言って口説き、最終的に水原を説得して監督招聘を実現させた。 '62東京オリンピックが2年後に迫っている状況において、整備計画のため駒沢球場が取り壊されることとなり、本拠地を学生野球のメッカであった神宮球場に移転した。 この年、水原監督率いるフライヤーズは土橋正幸と尾崎行雄の両エースの活躍もあり、初のリーグ優勝を果たす。 日本シリーズでも阪神タイガースを破り日本一に輝いた。大川は背番号100のユニフォームを着用し優勝パレードに参加。 パレードの執着地は世田谷区の大川邸であった。この優勝パレードの模様は、「東映優勝 背番号100」のタイトルを付け映画化され、全国東映系で上映された。 なお、東映フライヤーズの後身である北海道日本ハムファイターズでは、初代オーナーの大社義規(おおこそ よしのり)の功績を称え、ファイターズが'81リーグ優勝の際にオーナーが着用した背番号100のユニフォームを、2009.2.1永久欠番として制定している。
 '64国鉄スワローズが神宮球場に進出したことに伴い、本拠地を後楽園球場に変更。 この時期のフライヤーズは張本勲、大杉勝男、白仁天、毒島章一ら強打者が活躍した。'68球団史上初の最下位に終わる。'70「黒い霧事件」でエースの森安敏明が永久追放となる。
 '71オーナーの大川が急逝。後任に岡田茂がオーナーに就任。球団所有権を有する五島昇東急社長と共に、不採算であった球団を手放す方向で進む。 しかし、'72フライヤーズが身売りで動くと同時に、経営窮状の西鉄ライオンズも身売りに動いた。 両球団を巡り球界が揺れ、両チームとも引き受け手に断られ、身売りが暗礁に乗り上げ、パ・リーグは崩壊寸前となる。 この危機に対して、ロッテのオーナーの中村長芳が動き、西鉄を太平洋クラブの支援の下に買収。フライヤーズのオーナー岡田も一転、球団経営の存続を発表し、パ・リーグの6球団維持は継続された。
 '73ところが、フライヤーズは岡田・五島共通の知人で、首都圏で不動産産業展開する西村昭孝経営の日拓ホームに球団を身売り。 売却額は8億円。チーム名を「日拓ホームフライヤーズ」に改称し、西村は低迷したパ・リーグに活気を取り戻そうと7色のユニフォームを開発するなどして球団運営にあらゆる新機軸を試みたが、結局不発に終わる。 パ・リーグに将来はないと見切って、1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策したが調印寸前で反故にされ、西村は球界に嫌気が差して球団経営を放棄。同年終了後わずか1シーズンで日本ハムに身売りした。そ の後は、「日本ハムファイターズ」として後楽園・東京ドームを主戦場に戦い、ホームを北海道に移転したことを機に「北海道日本ハムファイターズ」と名称を変更し現在に至る。


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