岡山県浅口郡出身。旧姓は村山。村山菊蔵の長男。岡山県医局長で医師の小川知彰の養子。
1903(M36)東京帝国大学法学部政治科卒業し、大蔵省に入省するが、翌年新設された京都帝国大学経済学部に迎えられ講師となる。
助教授となり、'06から4年間ドイツ、オーストリアに留学。経済学、財政学を研究し、'12帰国し教授となり、'24(T13)まで在任。
その間、法学博士となり、経済学部長に推された。また、関西商工会議所特別議員として政治、経済の実際問題に関与していたが、政界に転じ民政党に属し、1917(T6)以来、衆議院議員に当選。以後当選8回。新政会から政友本党政調会長。
民政党に合流するとともに党政調会長となり、'29(S4)浜口内閣の大蔵政務次官、'36広田内閣の商工大臣、'40第二次近衛内閣の鉄道大臣を歴任。
新体制運動に協力して準備委員から翼賛会顧問。'43(S18)大戦中、翼政会総務のときビルマのバー・モウ政権の政府最高顧問に任ぜられ同国に赴任し、財政再建にあたった。
'45帰任の途中、アメリカ潜水艦の攻撃で乗船汽船の阿波丸が沈没(阿波丸沈没事件)し死去した。
この船に乗っていた、外務省調査局長を務めていた山田芳太郎(11-1-14)や海軍少将の佐佐木高信(9-1-19)も犠牲となった。
著書に『租税総論』、『交通経済論』、『税制整備論』、『財政学』共著など。'68従三位勲一等旭日大綬章追贈。
享年68歳。戒名は至誠院殿義剛顕道大居士。