1922(T11)東京帝国大学在学中に文官試験に合格し、翌年退学し外務省に入省。広東官補に着任。'45.4.1外務省調査局長の時、太平洋戦争末期にシンガポールから帰任の途中、台湾海峡において、米国潜水艦クイーンフィッシュにより撃沈され乗船していた阿波丸が沈没(阿波丸沈没事件)し在職中に逝去。享年47歳。没後追贈。同乗していた政治家の小川郷太郎(15-1-10)や海軍少将の佐佐木高信(9-1-19)も犠牲となった。
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*墓所に墓石は3基。正面は自然石「山田芳太郎之墓」。裏面に戒名の慈等院釋芳諱。簡略が刻む。昭和二十一年四月一日建。墓所右手側に和型「山田家之墓」、左手側に和型「西尾家之墓」が建つ。
*東京芝の増上寺境内に「阿波丸事件殉難者之碑」がある。
【阿波丸沈没事件】
1945年4月1日、日本の支配下にある地域の連合国民救済品の輸送にあたっていた阿波丸が、攻撃しないとの国際的合意を無視されて、台湾海峡でアメリカ潜水艦に撃沈され、アメリカ政府もその責任及び損害賠償を認めていた。
1949年4月10日吉田茂内閣は賠償請求権を自ら放棄して、世の物議をかもした。
この船に乗り組み犠牲となった中に、外務省調査局長を務めていた山田芳太郎や、ビルマのバー・モウ政権の政府最高顧問に任ぜられ帰国途中であった政治家の小川郷太郎(15-1-10)がいた。他に南方総軍参謀など南方諸地域において軍政に関与していた佐佐木高信も横須賀鎮守府への辞令を受け帰朝するため乗船しており犠牲となった。戦死扱いを受けて海軍少将に特進している。
【もっと詳しい阿波丸沈没事件の内容】
2千名余りの乗客乗員と9800トンもの貨物を満載していた1万2千トン級の大型貨客船「阿波丸」(浜田松太郎船長)が、太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)4月1日、午後11時、シンガポールから日本に向かう途中の台湾海峡において、米国潜水艦クイーンフィッシュにより撃沈された。
2千名余りの乗客乗員は、一人の生存者(下田勘太郎)を除いて全員死亡した。
この「阿波丸」は、アメリカおよび連合国側の要請によって日本の占領下で捕虜および抑留されている将兵や市民16万5千人(アメリカ軍捕虜と市民約1万5千人、連合国軍捕虜と市民約15万人)のために赤十字の救援物資を運び届けるという特殊な任務を帯びており、連合国側から往復路の航海絶対安全を保証されていた「緑十字船」であった。
阿波丸は、船体の一部を緑色に塗り替え、白十字の標識マークを付けて、1945年2月17日、約2千トンの救援物資を載せて門司を出港。
高雄、香港、サイゴン、シンガポール、ジャカルタに寄港し、その積荷である連合国の救援物資を届け、帰途につくべく最後の帰港であるシンガポールに1945年3月24日再度入港。
阿波丸の船室は一等船室が37人分しかないものの、ジャカルタで多数の在留邦人を乗せた後、シンガポールでも多数の東南アジア在留邦人が乗り込み、大多数の乗客は船倉に押し込められた。
すでに大量のスズや生ゴムを積んでいた阿波丸はシンガポールで更に戦略物資を積み込み、総計9800トンの貨物を積載し、3月28日予定通りシンガポールを出港。
4月1日に台湾の高雄へ正午位置を「北緯23度20分、東経117度27分」と報告し、台湾海峡の入口からこれから台湾海峡に入るとの連絡があったが、その後音信が途絶え阿波丸の消息が不明となった。
どうして安全航行保障が破られ米国潜水艦は魚雷攻撃を行ったのか、という阿波丸撃沈の謎だけでなく、この「阿波丸事件」は、大戦後に日本が請求権を放棄するという賠償問題の処理のプロセスや、連合国による停船・臨検も受けないという保証から巨額の財宝が阿波丸に積まれていたという話から生れる沈没船引揚げについてのいろんな動きなど、非常に奇妙で複雑な事件として有名。
また戦争末期に、絶対安全に東南アジアから日本へ帰れる船と信じられたため、帰航の乗船希望者が殺到し乗船選考割り当てで乗船できた幸運の人たちが阿波丸と運命を共にすることとなった。
阿波丸の乗客乗員数であるが、日本政府は当初、アメリカ政府に賠償請求をする際に2003人という数字を示した(生存者の下田勘太郎氏を含む数字)。
その後、2045人となり、外務省も厚生省もこの数字を使っている。しかし、東京都港区の芝増上寺にある阿波丸殉難者合同慰霊碑には2070人の名が刻まれている。
乗船者の多数は、米軍の攻撃で海に放り出され助かった遭難船員が700人以上、帝国石油450余人、阿波丸乗組員148人(下田勘太郎氏含む)、昭和電工97人、日本軽金属94人、古河鉱業11人、官庁関係では大東亜省・外務省46人、軍需省地下資源調査所11人など。
在外公館氏視察をかねた救援物資配送の使節団の責任者が、大東亜省の竹内新平次官(大東亜省新設時の総務局長)、大東亜省政務課の東光武三課長、外務省調査局の山田芳太郎局長らと共に阿波丸に乗船していた。
ビルマ政府の最高顧問の小川郷太郎や、1945年4月10日に東京で予定された大東亜会議に招集された東南アジア諸国に駐在していた司政長官、司政管等の多数の日本政府の高官たちも乗員の一員だった。
たった一人の生存者、司厨員の下田勘太郎は、戦後1946年日本に戻り、ほとんど阿波丸に関し沈黙し続け、1970年、69歳で亡くなった。
長年、台湾海峡の海底深く沈んだままになっていた阿波丸については、中国政府が1977年から極秘に引揚げ作業に取り組み、1980年12月、1977年から続いた阿波丸のサルベージ作業をほぼ終えたと発表。
中国は、1979年7月、80年1月、81年5月の3回にわたって、遺骨368柱、遺品1683点を日本に返還している。
<『阿波丸事件 太平洋戦争秘話』ミノルフクミツ著(読売新聞社、1973年8月発行)> <『阿波丸はなぜ沈んだか 昭和20年春、台湾海峡の悲劇』松井覺進著(朝日新聞社、1994年5月)>
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