東京出身。祖父は侯爵の佐佐木高行。高行の二男の佐佐木高志の二男として生まれる。
学習院初等科、同中等科を経て、1919.10.9(T8)海軍兵学校卒業(47期)し少尉候補生となり常盤乗組。'20.5.31 扶桑乗組、同.8.1 少尉に任官。'21.12.1 砲術校普通科、'22.4.8 水雷校普通科学生を経て、同.7.12 朝日乗組、同.10.14 響乗組、'22.12.1 中尉に進級した。'23.8.20 松乗組、同.12.1 利根分隊長心得、'24.12.1 大尉となり利根分隊長となる。'25 海軍大学校選科学生、東京外国語学校で中国語を習得した。
'27.3.23(S2)浜風砲術長 兼 分隊長、'28.11.15 宇治分隊長、'30.3.16 軍令部出仕(3班5課)、'31.12.1 少佐に進む。軍令部の参謀として満州海軍特設機関に勤務。'32.2.8 中華民国駐在、同.9.15 満州国駐在となり以後十年間、中国で大陸の軍政面の責務を遂行。'33.4.1 駐満海軍部副官 兼 参謀、同.11.15 鳥海運用長 兼 分隊長を歴任した。
'34.12.10 軍令部・海軍省(軍務局一課・二課)出仕。'36.12.1 中佐に累進し、'37.12.1 艦本出仕・事務局局員(一課)、'38.12.16 軍務局御用掛・興亜院調査官、'39.7.26 軍令部・海軍省(事務局一課)出仕、'40.2.16 兼 臨時海南島根司附、同.11.15 軍務局員を務めた。
'41.5.15 軍令部・海軍省出仕、同.8.11 兼 南遣艦隊附、同.9.11 仏領印度支那特命全権大使随員を兼ねる。同.12.8 太平洋戦争勃発後、同.12.10 南遣艦隊参謀に着任した。'42.1.3 第1南遣艦隊参謀。同.4.6 軍令部・海軍省出仕、同.5.1 大佐に昇格し、同.6.1 南西方面艦隊民政府総務局政務課長に就任した。同.12.26 第11特別根拠地隊附となり、'43.1.10 第11特別根拠地隊参謀 兼 副長に補された。
仏印タイ、セレベス島サイゴン、シンガポール等の南方諸地域において開戦前の諸対策戦中の軍政に関与。'44.1.26 第1海上護衛隊方面司令を兼務した後、同.3.13〜同.8.29まで天津風駆逐艦長も兼務した。同.12.26 第1護衛艦隊方面司令も兼ね、'45.2.15 南方総軍参謀をも兼務するなど戦況が悪化する中、縦横無尽に組織の立て直しに着手した。
同.3.20 横須賀鎮守府への辞令を受け帰朝するため、同.3.28 阿波丸に乗船。同.4.1 台湾海峡北口で撃沈され沈没し戦死。享年46歳。功3級金鵄勲章及び勲3等旭日重光章追贈、海軍少将に特進した。'54.10.17靖国神社に合祀さる。
*墓石は和型「佐佐木家奥津城」、裏面「佐佐木高信大人命 行年四十八歳 昭和二十年四月一日 大東亜戦争ノ折 阿波丸ニ乗船 台湾沖テ戦死海軍少将ニ任セラル昭和五十六年四月一日 佐佐木高大建之」。右面は墓誌となっており、佐佐木斐子(M31-H3.1.1・88才)、佐佐木高大(H9.2.10・60才)が刻む。妻の斐子は子爵・海軍少将の花房太郎の長女。
*墓所左側に「霊碑」と題して「勲功彌廣傳高信命 佐佐木高信」の刻みから略歴が刻む。『今ハはや護国の神を拝まん 君は誰よりも国を愛せし 斐子』と妻の斐子の句の後、「昭和五十六年十二月吉日 神道大教 品田聖平 謹作 佐佐木斐子 建之」と刻む。
*祖父の佐佐木高行の墓は青山霊園1イ21-8。伯父(高行の長男)の佐佐木高美は高行より先に亡くなったため、侯爵は従兄弟(高行の孫)の佐佐木行忠に継承された。佐佐木本家の墓は青山霊園。高信の父(高行の二男)の佐佐木高志(1872-1949)は海軍中佐で高行から分家。高信の母(高志の妻)は男爵の堤正誼の六女。高信の兄(高志の長男)の佐佐木高直が佐佐木高志の家督を継いだので、高信は分家している。兄の佐佐木高直は三井物産に勤めた。なお、兄弟姉妹は男2人の他は4女であり、高志の長女の志真子は昭和護謨取締役を務めた小川清に嫁ぐ。高志の二女の志保子は三井物産重役の伊藤與三郎に嫁ぐ。高志の三女の志賀子は子爵の末松春彦に嫁ぐ。高志の四女の志津子は信越化学工業会長を務めた小田切新太郎に嫁いだ。
*阿波丸沈没に遭遇し命を落とした多磨霊園に眠る人物は、佐佐木高信のほか、政治家の小川郷太郎(15-1-10)や外務省調査局長を務めていた山田芳太郎(11-1-14)も犠牲となった。「阿波丸沈没事件」に関しては山田芳太郎のページを参照のこと。