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いしい こう

石井 康

いしい こう

1895(明治28)〜 1968.1.30(昭和43)

大正・昭和期の外交官

埋葬場所: 10区 1種 15側

 東京出身。陸軍大佐の石井忠利(同墓)の長男。1920(T9)東京大学法学部卒業し、外務省に入省。アジア局属に配属される。その後、様々な要職に就く。  1933.10.15(S8)在バンクーバー領事のときに国際親善に尽くしていた新渡戸稲造(7-1-5-11)がカナダで開催された太平洋調査会の会議に出席した後に病に倒れ亡くなった。'34.8 日本からカナダへの玄関口だったカナダ・バンクーバーでは、在留邦人とバンクーバー日本協会が協力して、新渡戸の功績を記念する石燈とそれを中心とする日本庭園をブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)構内に造園し、同大学に寄贈した。庭園は周囲との調和を考え、純粋な日本式ではなく日加両国の樹木からなる折衷様式で造られ「新渡戸ガーデン」と称された。その寄贈式典に石井は参列しスピーチをし、この庭園により日加の親善理解が一層深まることを希望した。これらの記録は外務省記録『本邦人弔喪関係雑件』に残されている。なおこの庭園は、'58 UBCによる日加文化交流が企画され拡張・改築された。  その後、情報局第三部長、帝国教育会理事、アメリカ局第三課長など日本大使館の参事官や外務書記官を務め、外務省官房会計課長を経て、'40 サンフランシスコ総領事に着任。太平洋戦争勃発で引き上げ、タイの臨時代理大使などを務める。フィリピン公使を務めている時に終戦を迎え帰国。帰国後は公職追放された。  解除後、'53 旧友の岸信介の推薦でアジア問題調査会理事長に就任した。アジア問題調査会は「アジアにおける政治、経済、社会、文化、宗教などの重要なる問題に関する調査研究を行いアジアの繁栄と幸福とに寄与すること」をその目的として有力政治家の支援を受けながら発足した。月刊誌『アジア問題』を創刊するなど、アジア問題に関する中立を保つシンクタンクを自称し、古巣の外務省を巻き込み法人化を目指すため奔走した。しかし、'54 政府に関係する7団体を統合して設立されたアジア協会に吸収された。この協会の会長は藤山愛一郎(11-1-2-2)が就任し、アジア諸国への賠償や経済援助からアジア関与を推進する団体となる。

<外務省 外交史料 Q&A 昭和戦前期>
<日本型地域研究の生成と制度化−戦後日本経済とアジア研究−辛島理人>


墓所

*墓石は和型「石井家墓」。左側に墓誌がある。妻は峰(M4.5-S22.9.6:鹿児島出身・田中鼎輔の二女)。長男の石井康が外交官。石井康の妻の幸子(M35.7-S63.2.25)の父は官僚・政治家の石塚英蔵(8-1-17)の三女。二男の石井爽(M30.6-S11.1.3)は墓誌に経済学士と刻む。長女の冬は大蔵官僚の川越丈雄に嫁いだ。


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