ソ連(ロシア)浦塩(ウラジオストク)出身。この地で鈴木商店浦塩(ウラジオ)支店長を務めていた入野寅蔵(同墓)の二男として生まれる。兄は龍男(ロマン:同墓)。最初の名前は「義郎」であり、1958(S33)以降、「義朗」と名前に改名した(墓誌には義郎、記念碑には義朗)。聖霊名はウラジミル。
1927(S2)鈴木商店倒産により一家は福井県に戻る。'41 上京し東京帝国大学経済学部で学ぶ。'43 卒業。この間、在学中に東大オーケストラで戸田邦雄、柴田南雄を知り、柴田の紹介で諸井三郎に師事して作曲を学んだ。卒業後、海軍主計大尉として出征。この間も独学で作曲を続けた。戦後'46柴田、戸田、中田喜直、別宮貞雄らと「新声会」を結成、作品発表会をひらいた。シェーンベルクの創始した12音音楽に強い関心をもち、40年代末から雑誌などに紹介するとともに、みずからも12音の音列技法を用いて「7楽器のための室内協奏曲」(51年)、「シンフォニエッタ」(53年、毎日音楽賞)などを作曲、先駆的な役割を果たした。12音音楽はわが国の若い世代の作曲家たちにも次第に一般化していき、海外の動向とも結びついて、'50〜60年代にかけて、12音音楽からトータル・セリエリズム(音楽のすべての要素を音列化し組織化して作曲する方法)へと進んだが、そこには入野の大きな影響があった。'57柴田、黛敏郎、諸井誠らと「20世紀音楽研究所」を組織。音楽祭をひらいて海外の新しい動向を紹介した。また桐朋音楽大教授、JMLセミナーなどで音楽教育に尽力するとともに、日独現代音楽祭(のちパンムジーク・フェスティバル)、アジア作曲家連盟設立など国際的に活動。そのほかの代表作に「2つの弦楽器群と管・打楽器群のための合奏協奏曲」(57年尾高賞)、「シンフォニア」(59年尾高賞)、「法楽3重奏曲」(65年)、2本の尺八とオーケストラのための「ヴァンドルンゲン(転)」(73年)、室内オペラ、近松門左衛門による「曽根崎心中考」(77年)などがある。
*墓石は和型「入野家之墓」、「昭和十八年七月 入野寅蔵 建之」。右面が墓誌となっている。入野義朗の妻は音楽教育家・作曲家の高橋冽子(本名は入野禮子)。墓誌には「義郎 妻 禮子」と刻む。禮子は 2022.10.29(令和4)に享年86歳で亡くなったが、この墓所での納骨式は、2024年5月30日(R6)に執り行われ埋葬された。
*墓所入口左側に「ACL」の「入野義朗記念碑」が建ち、台座に「記念碑 入野義朗 / COMPOSER YOSHIRO IRINO / 13.11.1921 / 23.6.1980」と刻む。
*1984.6.23 入野義朗記念碑除幕式と第5回ACL入野賞授賞式が、この入野家墓所で行われた。「ACL」は「Asian Composers League」の略で、アジア作曲家連盟という意味。1973 日本、韓国、台湾、香港の4人の作曲家たちの呼びかけにより、汎アジア的音楽創作活動の振興、及び文化交流を目的に設立された。
*入野義朗が二度受章した尾高賞は、作曲家に与えられる権威ある賞であり、尾高尚忠(12-1-1)を記念して創設された賞である。
*入野が独自のカリキュラムを創り大学設置にも尽力した高崎短期大学が開校したが、開校前に他界した。妻の高橋冽子は開学にあたり高﨑短期大学助教授として週4日教えに行っていた。