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いりの とらぞう

入野寅蔵

いりの とらぞう

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明治・大正・昭和期の実業家(鈴木商店)

埋葬場所: 15区 1種 17側

 福井県敦賀出身。早稲田大学文科中退。ロシア正教会の信徒で、妻とお茶の水のニコライ堂にてロシア語学院でロシア語を学ぶ。聖霊名はティモフェイ。
 貿易会社の「鈴木商店」に入る。ロシア語が堪能であったことから、大正初期に鈴木商店浦塩(ウラジオストク)支店長に就任。1915(T4)浦塩日本居留民会会頭、浦塩日本商業会議所副会頭を務めた。'14 長男の龍男(1914-1995:同墓)、'21 二男の義郎(1921-1980)が誕生。
 '22.9(T11)一時帰国した寅蔵は、神戸新聞の取材を受け、帰国直前に長春で開かれた日本・極東共和国間の国交協議「長春会議」が決裂し、極東共和国のロシア・ソビエト連邦からの自立と日本軍の北樺太からの撤退交渉が不調に終わった経緯や、シベリア経済事情について解説した。
 '23 浦塩日本居留民会会頭となり、また在留日本人会理事なども務めた。'25 日ソ基本条約が締結されている。この時期の浦塩(ウラジオストク)には645人、181世帯の日本人が住んでいた(このうち32世帯が商売を営み、21世帯が会社の従業員、銀行員、販売員であった)。また日本の小学校が1校あり、288人の児童、日本人教師が3人、ロシア人教師が1人。
 '27(S2)昭和金融恐慌による鈴木商店の経営破綻により浦塩支店が閉鎖。一家は郷里の福井県へ帰国を余儀なくされた。帰国後、ウラジオストク会を結成し、長い間、ウラジオストクの生活スタイルを日本でも行ったという。

<鈴木商店記念館:鈴木商店のあゆみ>


墓所

*墓石は和型「入野家之墓」、「昭和十八年七月 入野寅蔵 建之」。右面が墓誌となっており、入野寅蔵から刻みが始まるが風化が激しく刻みが読めない。墓所入口左側に「ACL」(Asian Composers League:アジア作曲家連盟)の「入野義朗記念碑」が建つ。

*二男の入野義朗は作曲家、義朗の妻の高橋冽子(本名は入野禮子)は音楽教育家。


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