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たかはし れいこ

高橋冽子

たかはし れいこ

1936.5.27(昭和11)〜 2022.10.29(令和4)

昭和・平成期の音楽教育家、作曲家

埋葬場所: 15区 1種 17側〔入野家〕

 東京出身。旧姓は髙橋。本名は入野禮子(礼子)。高橋冽子(髙橋冽子)は職名。夫は作曲家の入野義朗(同墓)。義父は鈴木商店浦塩支店長を務めた入野寅蔵(同墓)。名前の「冽子」とした由来は、友人から「貴女の名前は強過ぎて喧嘩早いので名前を変えた方が良い」と言われ安易に「禮子(礼子)」を「冽子」にしたが、名前を変えても相変わらず怒りっぽく、桐朋も高崎も怒って辞職したと晩年回想している。
 1956(S31)桐朋学園短期大学作曲科(第1期生)卒業。短期大学2年生の時から学生でありながらソルフェージュ(演奏されたメロディーや和音を聴き取り楽譜に正しく書くこと)の先生に抜擢されていたこともあり、短期大学卒業後教諭として採用される。5年後、'61 桐朋学園短期大学が4年制大学に昇格したため、桐朋学園大学3年に編入。学生をしながら教諭もつとめたため、講師室から授業へ出席した。
 '64 桐朋学園大学作曲家卒業。入野義朗、別宮貞雄を師事。卒業後は、母校の桐朋学園大学や東京音楽大学付属音楽教室の講師として、ソルフェージュ教育の他に、大学では和声学や対位法、キーボードハーモニー、理論ピアノ、高校の作曲実技も担当した。さらに学生寮の先生もつとめた。入野義朗と結婚後、29歳で子供を授かった後も、子育てをしながら教壇に立った。
 東京音楽大学付属音楽教室は27年間ソルフェージュ主任として勤める。また青山学院大学で音楽理論も担当した。アジア作曲家連盟、日本作曲家協議会に属す。夫の入野義朗と一緒に高橋冽子の名義の共著で『音楽の基礎 ソルフェージュ (楽譜)』シリーズを刊行。
 '80.6.23 夫の入野義朗が逝去。日本の現代音楽界を代表する3人の作曲家、石井眞木・湯浅譲二・松平頼暁の協力を得て、入野義朗の功績をたたえ「入野賞基金」が設立され代表に就任。新しい方向性を模索し革新的で新規な創造性を発揮する若い作曲家に授与する「入野賞」を設置。入野賞は二つの部門から構成されており、室内楽部門(8人以下の編成)は毎年開催される一方、偶数年には室内オーケストラ作品部門(9から17楽器)が開催されている。
 '81 群馬県多野郡吉井町に音楽科(器楽専攻25名・声楽専攻25名)のみの高崎短期大学が開学(設置主体は学校法人堀越学園)。開学に向けて参画していた夫の入野義朗が前年に亡くなったが、高橋冽子は開学にあたり高﨑短期大学助教授に就任。高崎短期大学は、'88美術科を増設して高﨑芸術短期大学と名称を変更。2003年度の入学生を最後に、2008廃止された。
 JMLセミナー入野義朗音楽研究所を設立し所長に就任。2010.11.1(H22) NPO法人化し、特定非営利活動法人JML音楽研究所とし没するまで理事長を務めた。享年86歳。没後、関わった団体等で追悼演奏会が行われた。

<音楽家人名事典>
<入野禮子「誰も知らない高橋冽子、誰でも知っている高橋冽子」JCAA・日本作編曲家協会 今月の作家 No.57>


墓所

*墓石は和型「入野家之墓」、「昭和十八年七月 入野寅蔵 建之」。右面が墓誌となっている。入野義朗の妻は音楽教育家・作曲家の高橋冽子(本名は入野禮子)。墓誌には「義郎 妻 禮子」と刻む。禮子は 2022.10.29(令和4)に享年86歳で亡くなったが、この墓所での納骨式は、2024年5月30日(R6)に執り行われ埋葬された。

*墓所入口左側に「ACL」の「入野義朗記念碑」が建ち、台座に「記念碑 入野義朗 / COMPOSER YOSHIRO IRINO / 13.11.1921 / 23.6.1980」と刻む。

*娘の入野智江は慶應義塾大学卒業。パーカッショニスト、インド古典劇演者、演奏家として活動。2006 インド古典劇「アビナヤラボ」 (Abhinaya Labo)を主宰。2008.8 東京楽竹団に所属。2011 冽子が設立したNPO法人JML音楽研究所の理事も務める。


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