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いぬまる ひでお

犬丸秀雄

いぬまる ひでお

1904.1.21(明治37)〜 1990.4.25(平成2)

昭和期の官吏、日本国憲法研究家、
文芸評論家

埋葬場所: 6区 1種 1側

 岡山出身。実業家の犬丸鐵太郎(同墓)の長男。弟に官僚の犬丸實(同墓)、判事の犬丸純男(同墓)がいる。
 1928(S3)東京帝国大学法学部政治学科卒業し、同大学大学院に進み、'34第4高等学校教授となる。 '40文部事務官専門学務局科学課勤務となり、'42科学局企画課勤務、'43第1高等学校教授兼文部事務官兼外務省調査官となった。 '43〜'45にかけて科学研究及び科学行政の視察のため欧州各国に出張。この出張は海外学術文献蒐集のためである。 ソビエト・トルコ経由で欧州に入り、スペイン・ポルトガル・イタリア・フランス等へ科学文献をあつめて奔りまわり、集めた文献は、ドイツからスウェーデン、ソビエト経由で輸送に成功した。
 '45.5帰国し、文部省教化局教化課長に就任。'46科学教育局人文科学研究課長、人文科学委員会幹事兼日本学士院主事、'49社会教育局芸術課長兼日本芸術院主事、'50文化財保護委員会本部長を歴任した。 '52.10東北大学教授となる。'57.7防衛庁に出向、防衛大学校教授、'58.4東京水産大学講師併任、'59.4人文科学教室主任となった。 『経済学原論』『国防と教養』『日本国憲法制定の経緯』などの著書もある。また歌集『海表』も刊行した。日本国憲法研究ではじめてGHQ文書を使った人として名が知られている。享年86歳。
 2007.9(H19)第2次世界大戦中に文部省科学局(それ以前は専門学務局科学課)で作成された簿冊が国立国会図書館に親族より寄贈された。 文部省では第2次大戦により欧州の学術文献蒐集が途切れることに対処し、欧州へ官員を派遣して科学文献を蒐集した。 文部省科学局に属していた犬丸がこのため直接欧州に派遣され、科学雑誌の送付や論文題目などを電報によって文部省へ送る仕事を行ったが、本文書にはこの折の科学局(科学課)の公文書、主に外国科学文献の翻訳事業、物理化学・医学などの綜合報告発行事業、科学論文題目速報事業などについての簿冊がある。 また科学課の1942年度予算関係資料があり、科学振興に関する経費増加申請などを見ることができる。 この他、'47学術体制刷新委員会発足に関する文部省の簿冊(1冊)、'55日本学士院の分離・独立に関する簿冊(1冊)、'40年・'43帝国議会説明資料・予想答弁資料や、'36大内兵衛(6-1-11-11)の思想傾向に関する調査報告書なども含まれる。

<犬丸秀雄関係文書(国立国会図書館)など>


墓所 墓所

*墓所には二基並ぶ。右側が「犬丸鐵太郎 / 室 恒 墓」、左側は「犬丸家之墓」。墓所には2基墓誌が建つ。入口正面の大きい墓誌には犬丸鐵太郎一族が刻む。鐵太郎の妻で母は恒(M14-S33.6.28)。恒は赤穂藩士・津山藩士の儒学者の鞍懸寅二郎の孫(母方祖父)、東京帝国大学教授・無教会伝道者の江原萬里の姉。恒の隣には弟(二男)の犬丸實が刻み、「昭和五十二年四月二十七日勲一等瑞寶章 平成六年德月十三日従三位」と刻む。實の妻は とよ子(H9.1.13歿・78才)。弟(三男)の犬丸純男は「判事」と刻む。墓石と向き合った墓誌も建つ。洋型墓石で本来表面であろう裏面「犬丸氏」、左面「昭和四十七年三月 犬丸秀雄建之」。こちらは秀雄一族が刻む。秀雄には「正四位」と刻む。妻は由紀子(H22.12.21・行年96才)。なお、こちらの墓誌にも母の恒が刻む。

*「犬丸家之墓」墓石の裏面には下記が刻む。「犬丸氏姓藤原出自 門白道兼九世清玄為豊前下毛郡犬丸城主因氏焉 天正十六年越中守清俊陣亡墓在同郡西秣 慶長十九年子秀俊始仕備前候以至 明治維新三十一世鐵太郎移居干 東京昭和十一年築塋域於多磨墓地 先塋在岡山城北半田山」


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