岡山県出身。岡山藩士の石丸石雄の長男として生まれる。父の石雄は刀槍に長じ戊辰の役に功あり。清国に遊学し帰朝後、岡山藩養成所頭取を務めた人物。弟は大審院判事の犬丸巌。1899(M32)家督を相続す。
農商務省に入省してすぐ、農商務省海外留学生として欧米に留学を命ぜられる。米国の大学の卒業論文『米国綿業史』は好評を得た。帰朝後、内国勧業博覧会審査官、聖路易(セントルイス)博覧会審査官、農商務省商品陳列館技師を務めた。
また麥稈(麦稈:ばっかん:むぎわら)眞田業の攻究に留意し、その研究成果を本にまとめ『麦稈真田及経木真田』(1907.1.1)を刊行。明治維新後、男子のちょんまげを切り落とす断髪令の施行をきっかけに、ザンギリ頭を飾るのに“シャッポ(西洋の帽子)”をかぶる習慣が定着。同時期に麦わら帽子の素材となる「麦稈真田(ばっかんさなだ)」の生産が日本で始まる。麦稈真田とは、麦稈(麦わら)を平たくして裂いたものを真田紐(戦国時代から伝わる手工芸品)の手業を使って編んだもので、主原料である大麦の栽培が盛んだった犬丸の郷里の岡山県と埼玉県が代表的な産出地。当時は農家の副業として麦稈真田が作られ、「麦わら帽子」の生産が盛んな欧米に向けて輸出された。
1906 渋沢栄一の知遇を得、渋沢が創立以来会長を務めていた東京人造肥料会社に招聘され、農商務省を退官。'07.2 東京人造肥料会社専務取締役に就任。旧弊を打破して社務を改進せしむると共に、同業者との競争場裡に角遂の任に当らしめしかば、事業大に発展し、半年で資本金を倍加させ盛況となる。
その後、東京米殼商品取引所専務理事、十三銀行監査役、東京菓子会社専務、亜細亜煙草専務、中国葉煙草社長、大安煙公司社長などを歴任。輸出貿易に関する調査研究も行った。'41.11(S16)紺綬褒章。享年67歳。
*墓所には二基並ぶ。右側が「犬丸鐵太郎 / 室 恒 墓」、左側は「犬丸家之墓」。墓所には2基墓誌が建つ。入口正面の大きい墓誌には犬丸鐵太郎一族が刻む。鐵太郎の妻は恒(M14-S33.6.28)。恒は赤穂藩士・津山藩士の儒学者の鞍懸寅二郎の孫(母方祖父)、東京帝国大学教授・無教会伝道者の江原萬里の姉。恒の隣には二男の犬丸實が刻み、「昭和五十二年四月二十七日勲一等瑞寶章 平成六年德月十三日従三位」と刻む。實の妻は とよ子(H9.1.13歿・78才)。三男の犬丸純男は「判事」と刻む。墓石と向き合った墓誌も建つ。洋型墓石で本来表面であろう裏面「犬丸氏」、左面「昭和四十七年三月 犬丸秀雄建之」。こちらは長男の犬丸秀雄一族が刻む。秀雄には「正四位」と刻む。妻は由紀子(H22.12.21・行年96才)。なお、こちらの墓誌にも恒が刻む。
*「犬丸家之墓」墓石の裏面には下記が刻む。「犬丸氏姓藤原出自 門白道兼九世清玄為豊前下毛郡犬丸城主因氏焉 天正十六年越中守清俊陣亡墓在同郡西秣 慶長十九年子秀俊始仕備前候以至 明治維新三十一世鐵太郎移居干 東京昭和十一年築塋域於多磨墓地 先塋在岡山城北半田山」