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いけだ ちゅういち

池田忠一

いけだ ちゅういち

1850(嘉永3.9)〜 1934.12.17(昭和9)

明治期の官僚

埋葬場所: 2区 1種 2側 5番

 江戸下谷(東京都台東区)出身。1871(M4)静岡に移住。1877県庁に出仕し、1883佐野・城東郡長となり、掛川中学校の建設、東遠衛生会組織に努める。 1885豊田、山名、磐田郡長となり、見付小学校新築に関口隆吉県知事が来席し、県下第一と評した。 寺谷用水工事、ついで社山疏水工事に取り組み、郡役所にほとんど出勤することなく、連日村々を巡視し、人々から「社山郡長」と呼ばれた。また各村々の悪水紛争等の調停を行った。 1902郡長を退くと、推されて中遠農会長、磐田郡農会長となり、耕地整理事業を行う。その後三保学院長。著書に『朝露の覚』がある。長男は神奈川県知事などを務めた官僚の池田宏(同墓)である。

<静岡県歴史人物事典35頁>
<五輪塔様より情報提供>


墓所

*墓所入口に「池田宏墓所」と刻む標柱が建つ。墓石正面は「池田氏墓」。右側に墓誌が建ち、池田家初代から11代目の一族が刻む。忠一は八代目と刻む。戒名は先後院十一在一不居士。妻は 須亦(すま:文久1.12-S10.5.2:旧姓は堀田)。墓所左側にも二つ墓誌碑が建つ。奥は池田家に関して、手前が池田忠一の碑。

*長男は池田宏(9代当主)。二男の池田錫は内務技師・厚生技師。三男の池田克は大審院検事や最高裁判所判事を務めた。宏の前妻の信(M21.2-T13.2.7没)は京都府知事・皇后宮の大夫・男爵の大森鍾一の二女であり、池田家の右隣の墓所の中川家に眠る県知事などを務めた中川望の妻の貞で、双方の妻は姉妹同士である。なお宏の後妻は民子(M25.10-S62.3.30)。民子は北海道出身で但馬八木蔵の二女。宏は前妻の信との間に4男2女を儲けており、後妻の民子との間に1男1女を儲けている。墓誌より同墓には長男の池田善長、後妻との子(5男)池田充之(S52.12.13没)、(3女)門藤中子(T15.7-S60.3.4)も眠る。

*池田宏の長男が農業経済学者の池田善長(10代当主)。戒名は善教院浄譽長覺居士。池田善長の長男で農学者・地理学者の池田均(11代当主)。戒名は碩学院叡譽均照居士。


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