東京出身。日本画家の荒木寛畝(同墓)は養祖父。父で日本画家の荒木十畝(同墓)の子。
東京帝国大学卒業後、欧米に留学。1927(S2)帰国し、母校の農学部教授となる。'35農学部から経済学部に移り教授。
当時の助手にストックホルム「亡命」事件で著名な崎村茂樹がいる(光太郎は崎村の留学のパトロンとされている)。経済理論・貨幣論研究を行った。著書に『現代貨幣問題』『貨幣概論』などがある。
妻の光子(同墓)は三菱財閥の娘であり、ドイツ語やロシア語も堪能であったことから、戦前、夫妻で多くの社交界に参加しており、光子は「東京社交界の名花」と称されていた。
特にドイツ大使館のパーティーは常連であり、オット大使夫妻やゾルゲ(17-1-21-16)らと交友していた。その際、戦後日本を占領統治した連合軍総司令部(GHQ)の諜報機関G2(参謀第2部)の親玉であったチャールズ・ウィロビー少将の通訳として行動を共にすることが多かった。
ウィロビーの父はドイツ人、母はアメリカ人の米国籍軍人。戦後、光子はウィロビー邸に自由に出入りできるただ1人の日本人であった。
このような縁もあり、戦後、東京大学を追放されていた光太郎はウィロビーが身柄を引き取り、GHQのG2が太平洋戦史をまとめる際、ウィロビー指揮下の軍事情報部歴史課長として抜擢された歴史家でメリーランド大学教授であったブランゲの下に雇われて、太平洋戦史に絡んだ記録を収集した(太平洋戦史研究の通史はマッカーサーが気に入らずボツとなるが、ゾルゲ事件などその後の貴重な資料となるものもあった)。
この機関には多くの日本人が雇われたが、光太郎は日本側代表の編集主任として活動した。主に携わった人物として、陸軍中将の有末次(22-1-22)の兄の有末精三(陸軍中将)、河辺虎四郎(陸軍中将)、辰巳栄一(陸軍中将)、渡辺 渡(陸軍少将)らがいる。享年57歳。