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あらき かんぽ

荒木寛畝

あらき かんぽ

1830.6.16(天保2)〜 1915.6.2(大正4)

幕末・明治・大正期の日本画家

埋葬場所: 16区 1種 15側

 江戸・芝の出身。旧姓田中。名は吉、幼名を光三郎。別号に達庵。9歳で谷文晁派の荒木寛快に入門、22歳のとき寛快の養嗣子となった。
 初め画を荒木寛快に学び、1856(安政3)山内容堂に認められ土佐藩の絵師となる。維新後の1872(M5)ウィーン博に「菊花図」で受賞した。同年容堂没後、洋画に転向、油絵を川上冬崖などに学び、一時油絵3名家として五姓田芳柳、高橋由一と共に並び称された。
 その後再び日本画に復帰、南北合派に洋風を加味した写実的な花鳥画を得意とし、1887設立の日本美術協会の重鎮として活躍。1898東京美術学校教授、1900帝室技芸員。1906英国ロイヤル・ソサェティ・オブ・アーツ会員。 1907開設の文展では第1回より審査員をつとめた。
 旧派に属し、南北画を合わせてそれに写生味を加えた堅実な風画を有す。代表作に『孔雀図』など多数。門下は多く、池上秀畝などがおり、荒木十畝(同墓)は寛畝の養子となった。享年85歳。

<世界人名辞典 東洋編>
<森光俊様より情報・写真提供>


墓所

*墓所真ん中に和型「荒木家之墓」。右側が荒木寛畝の墓。左側が荒木十畝の墓。荒木寛畝の墓石正面「寛畝墓」。左面に「開示院殿寛畝日晃居士 大正四年六月二日」と刻む。 荒木十畝の墓石正面は「開悟院殿十畝日顕居士 悠楽院殿妙静日悟大姉」と戒名が刻む。墓石手前左右に墓誌がある。同墓には十畝の子で経済学者の荒木光太郎・光子(共に同墓)夫妻も眠る。

*荒木寛畝、十畝の墓は新宿区弁天町・浄輪寺にもある。多磨霊園に建之されている墓石と同じ墓が建つ。


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