山梨県東山梨郡英村(八代郡英村:笛吹市石和町)出身。1931(S6)東京外国語大学イタリア語科卒業。同.9 欧文社を創業、以来54年間、代表取締役社長及び会長として社の発展興隆に尽力する。
創業当初は中学生を対象に日本初の通信添削を始める。'32通信添削形式による受験指導も始め、会員連絡用の雑誌「受験旬報」を創刊。'41「受験旬報」の成功をヒントに受験雑誌「蛍雪時代」と改題し創刊。'35『英語基本単語集(豆単)』は“赤尾の豆単”で知られ、通算1380万部のロングセラーとなる。その他『入学試験問題詳解(全国大学入試問題正解)』(1935)、『エッセンシャル英和辞典』(1940)など刊行し受験産業の開拓者となる。'42軍部から「欧文社」の「欧」が敵性語と見なされ圧力がかかったため社名を「旺文社」に変更した。
戦後も、'46「日米会話必携」刊行、'48「進学適性検査模試」実施、'49雑誌「中学時代」「高校時代」「傾向と対策シリーズ」などの学習雑誌を刊行した。'50財団法人日本英語教育協会理事長に就任。'52「大学受験ラジオ講座」を開設スタートさせ、ラジオ講座テキストを刊行し教育放送の原型をつくることにも尽力。'54「大学入試模擬試験」を開始。'55文部省社会教育審議会委員に就任。'57「全国学芸コンクール」(全国学芸サイエンスコンクール)を創設。'58「百万人の英語」のラジオ放送を開始。その後も、「旺文社国語辞典」、「旺文社古語辞典」、「高校英語教科書」、「旺文社学芸百科辞典」、「小学生ハイトップ」、「中学ハイトップ」、「英単語ターゲット1900」など、受験生にとっての愛用本を多く出版刊行した。
'60財団法人日本出版クラブ会長に就任。同年、財団法人社会通信教育協会を設立し会長に就任。'63財団法人日本英語検定協会を設立し理事長に就任し「実用英語技能検定」(英検)を創設した。
'56株式会社文化放送の設立に参画。'68代表取締役社長に就任。'57.11.1日本教育テレビ(テレビ朝日)の設立に参画し、初代社長に就任。初代会長は東映社長の大川博(15-1-2-14)が就任。営利目的とした教育専門局を目指したが番組販売が伸び悩んだことで、'60.11.30翌月より教育のみに特化しない方針に切り替えるため、NETテレビに変更し、赤尾は会長、大川が社長として再出発した。'64.11.9大川退任に伴い、赤尾が再び社長を務めた(〜'65.3.31)。以降、'83.6.29まで会長。なおNETテレビは、'77.4.1全国朝日放送株式会社に社名変更を経て「テレビ朝日」となる。この間、日本短波放送取締役を歴任した。またテレビ朝日と民放テレビ第3局、第4局として産声をあげたフジテレビにも深く関与し株を握った。
出版事業、社会教育事業、放送事業を通し、広く青少年教育並びに社会人の教育、教養の向上に寄与した。主な著書に『若き人々におくる』(1937)、『若い人のために』(1955)、『若人におくることば』(1974)がある。
狩猟を趣味とし、スポーツ射撃も秀で、'48全日本射撃選手権で優勝、'51日本スポーツ賞受賞、'52、'53全日本射撃選手権で二連覇(3回目)、'54第二回アジア射撃大会で銅メダル獲得、同年第三十六回世界射撃選手権大会(ベネズエラ)では、スキート射撃・トラップ射撃でそれぞれ銀メダル獲得した。
'67藍綬褒章。'77勲2等旭日重光章。'80.8.18ローマ法王ヨハネ・パウロ2世より銀大勲章付大聖グレゴリオ市民二等騎士章を受章。'85.4 勲1等瑞宝章受章。享年78歳。没後、従3位に叙せられた。23回忌に当たる2007(H19)赤尾の郷里の山梨県の明日を担う若者を応援・支援するため公益財団法人赤尾育英奨学会が設立された。
<赤尾好夫碑の碑文> <コンサイス日本人名事典> <20世紀日本人名事典> <講談社日本人名大辞典など>
【赤尾好夫の格言】
「転んだら起きてまた歩けばいいじゃないか」
「一番価値があり、一番安いものは知恵」
「人間は忘れる動物である。忘れる以上に覚えることである」
「草花でさえ、最後まで、自己の全力を尽くして、生命の本分を尽くそうとする。しかるに自分は人間でありながら、何たるざまだ。」
〈勉強十戒〉
一、学習の計画を立てよう 計画のないところに成功はない
二、精神を集中しよう 集中の度合が理解の度合である
三、ムダをはぶこう 戦略の第一は時間の配分にある
四、勉強法を工夫しよう 工夫なき勉強に能率の向上はない
五、自己のペースを守ろう 他をみればスピードはおちる
六、断じて途中でやめるな 中断はゼロである
七、成功者の言に耳をかたむけよ 暗夜を照らす灯だ
八、現状に対し臆病になるな 逃避は敗北だ
九、失敗を謙虚に反省しよう 向上のクッションがそこにある
十、大胆にして細心であれ 小心と粗放に勝利はない
【赤尾好夫没後の旺文社】
1985(S60)旺文社の創業者の赤尾好夫が亡くなった後、2代目社長を継いだのが長男の赤尾一夫である。昭和末期から平成前期にかけて、団塊世代の子どもたちである第2次ベビーブーム世代の高校・大学受験が到来してくる時期であった。それを見据えて、'87日本英語検定協会(英教)は英検5級を新設し、早い段階から英語に親しませ、さらに旺文社と英教が連携してテレビ番組「早見優のアメリカンキッズ」をスタートさせた。好調な滑り出しであったが、旺文社独占だった通信教育界は同業他社(Z会やベネッセなど)のダイレクトメール営業に押され、模試やゼミは業績が下降線となっていった。そのため、'91(H3)『中1』『中2』『中3』に分かれていた中学生向け雑誌を再統合し『高校合格』とするも売り上げを思うように伸ばすことができず、'93廃刊に追い込まれた。高校向けは『高1時代』『高2時代』を廃刊して『蛍雪』を再び高校全学年に対応する雑誌に切り替えた。
'92(H4)文化放送やラジオたんぱなど、日本全国のAM、FM、短波ラジオ放送局で放送された英会話番組『百万人の英語』が34年間(1958.4.1-1992.10.4)の歴史に幕を下ろす。この番組は旺文社と英教が制作し、番組テキストを兼ねた月刊雑誌を発行していたが、聴取者低迷と雑誌発行数の下降により打ち切られ、「早見優のアメリカンキッズ」に一本化された。しかし、その「早見優のアメリカンキッズ」も一時的なブームはあったが、'94の改編で打ち切りとなった。同じ頃、文化放送開局('52)から旺文社一社提供として放送を続けていた『大学受験ラジオ講座』を、平日の放送を取りやめ週末の長時間放送に移行したところ聴取者の離反を招き、43年間の歴史に幕を下ろした('95)。なお「百万人の英語」「大学受験ラジオ講座」のラジオパーソナリティを務めていたのは、旺文社の顧問も務めていたジェームズ・バーナード・ハリス(J・B・ハリス:外-2-1)である。
「大学受験ラジオ講座」はラジオたんぱに移行して「大学合格ラジオ講座」として放送を続け、旺文社は「KEISETSUアルシェ」の発行を続けたが、短波ラジオは専用の受信機が必要であったこともあり需要は伸びず、'99番組は打ち切られ、受験生番組は完全に終了した。さらに2000年度限りで、旺文社模試と旺文社ゼミの事業も終了。
第2次ベビーブーム世代の進学が一巡し、徐々に少子化になることの対応にも遅れ、旺文社は経営悪化に陥る。2001再建のため、保有していた文化放送とテレビ朝日の株式を全て売却し資本関係は解消された。売却で得た資金で累積赤字を解消させ、三菱商事を相手とする第三者割当増資を仕掛け支援体制を確立したことで、旺文社は倒産の危機から立ち直った。2002.1.3一連の旺文社グループの終焉を見届ける形で、赤尾好夫の妻の鈴子が亡くなる。
長男の赤尾一夫は2代目旺文社社長として文化放送を通じるなどし、一時はフジテレビ株の28.4%、テレビ朝日株の21%を実質所有して、フジテレビ役員なども務め、隠れたメディア王とまで称された。しかし、通信教育界の同業他社の勢いや少子化対応の遅れなどから経営が悪化し、各種株を手放し、節税を兼ねた財団法人センチュリー文化財団理事長を兼ねた。そんな折、2006.10.4赤尾一夫は58歳の若さで亡くなった。
旺文社3代目社長には一夫の弟の赤尾文夫が社長に就任。2012.1文夫は社長を退任し、4代目社長は生駒大壱が就任。旺文社は創業以来82年目にして赤尾一族から離れ現在に至る。
<「二重らせん 欲望と喧噪のメディア」中川一徳など>
第302回 受験英語の神様 旺文社 射撃選手 赤尾好夫 お墓ツアー
|