愛媛県出身。東京神学社で高倉徳太郎にまなび、卒業後、日本基督教会佐渡伝道所に赴任。高倉の要請で『福音と現代』の編集のために上京。1931(S6)中原伝道所を開き、同年、上原教会(日本基督教団代々木上原教会)を創設し牧師となる。按手礼を受け終生上原教会を牧会する。
戦前はスイスのプロテスタント神学者カール・バルトに傾倒する。戦時中にキリスト教界の多くが国家に妥協する態度を深く反省し、社会実践の必要を感じるようになった。最初は社会党に期待したが失望し、共産党に傾倒。'49総選挙で日本共産党の風早八十二を応援。キリスト教と共産主義(マルクス主義)とが、信仰と実践という異なる次元の真理ゆえに両立しうると主張して、日本基督教団の牧師のままで共産党入党の決意を表明。内外に論議を巻き起こし「赤い牧師」と話題になる。結果、教団幹部からキリスト教と共産主義は両立し得ないと入党断念を働きかけられ、入党を控えることとし、外部から共産党に協力をする姿勢に切り替えた。以降、「信仰はキリスト教、実践は共産主義」を主張するようになる。
'50洗礼を授けた小説家の椎名麟三らと雑誌『言』『指』を創刊。教会制度批判、日曜学校・賛美歌の廃止などを通してキリスト教界に問題を提起した。同じくして基督教団は赤岩の「信仰はキリスト教、実践は共産主義」の主張は容認できないという結論になり、キリスト新聞にその声明を発表。教団内部でも赤岩の立場を支持する勢力と、支持しない勢力に分裂した。作家の遠藤周作は『私にとって神とは』の著書の中で赤岩問題に触れ、「私は作家的な視点でキリスト教を捉えているので、赤岩のようにキリスト教を否定することにはならない」と述べている。また日本キリスト改革派教会の創立者の岡田稔は、講演内で「植村正久の神学が高倉徳太郎を経て、赤岩栄という鬼子を生んだのは必然である」と発言した。
'64聖書の非神話化に共鳴して『キリスト教脱出記』を刊行発表。これは正統的キリスト教信仰を廃して、人間イエスとの主体的な交わりを説くなど、内部からの鋭い問題提起とキリスト教批判とを行った。他に全国生活と健康を守る会連合会(全生連)第3代会長を務めた。
主な著書に、処女作『聖書に於ける神の言』(1932)、『赤岩栄説教集 第1』(1934)、『微行者イエス 四福音書に於けるキリスト』(1937)、『星は導く』(1945)、『永遠者の探求』『人間この逆説的なるもの』(1948)、『キリスト教と共産主義』『私はイエスを裏切らない』『私はいまもイエスを追ふ』『神を訪ねて』(1949)、『新しい人間誕生 これからのキリスト者』(1953)、『人間その回復』(1962)など。享年63歳。没後、『赤岩栄著作集』全9巻が発刊された。
*正面は「イエス共同体の碑」と刻む。小田原に近い根府川から採られた赤味をおびた等身大の原石に、石井市次郎(上原教会の長老・同墓)の肉筆で刻む。裏面は「一九九三年十一月 日本基督教団 上原教会 建之」と刻む。墓所右側に墓誌が二基建つ。左側の墓誌は「上原教会召天者墓誌」、右側の墓誌は「代々木上原教会召天者墓誌」。左側の墓誌は、1947.12.17栄養失調で8歳の若さで亡くなった陶山伎世子から始まり、1957に1歳で亡くなった佐治伸一に次いで、三番目に赤岩栄の刻みがある。なお、同墓所には牧師の村上伸や杉原助、作曲家の黒髪芳光も眠る。
*日本基督教団 代々木上原教会(東京都渋谷区上原3丁目18-3)はプロテスタント教会。1931(S6)赤岩栄が設立した上原教会と、1978(S53)村上伸(同墓)牧師の市谷集会が母体の「みくに伝道所」(1982伝道所認可)が、1997(H9)合同して「代々木上原教会」となり、現在に至る。代々木上原教会の初代牧師はキリスト教学者で東京女子大学名誉教授、ボンヘッファー研究の第一人者の村上伸(同墓)が務めた。
*現在の代々木上原教会牧師を務める陶山義雄氏の回顧録(牧師室から)によると、妹(陶山伎世子)が戦後の混乱期で栄養失調のため8歳の若さで召天(1947.12.17)し、父の陶山義興(同墓)が翌年のイースターを目指して墓地を求め歩き、上原教会の長老の石井市次郎(同墓・墓石の題字をした)の協力を得、1948年2月 多磨霊園のこの地に埋葬した。よって、最初は陶山家の墓地として始まる。当初はコンクリート製の納骨室が敷地3分の1ほどの所に建てられ、半分ほど地上に露出したままコンクリートの蓋で覆われ、内部は2段の棚が置かれた質素なものであったという。陶山義興は直に赤岩栄牧師に上原教会の共同墓地にすることを提案したが、赤岩は「生ける者たちの教会に墓地は不要である」という考えであったという。後に教会への寄贈移管が認められて共同墓地となる。現在の姿に変わったのは1995年11月。教会移転に伴い、東京都から支払われた転居費の一部を充てて念願の共同墓地が完成。「イエス共同体の碑」とは、赤岩が「神の国」と云う教会用語に代えて、これを「イエスの救いの絆で結ばれた共同体」と称えていたことを想起して、1995年10月の臨時教会総会・決議によって「イエス共同体の碑(いしぶみ)」とした。毎年11月第二日曜日に召天者記念礼拝が行われている
<代々木上原教会HP 牧師室から「イエス共同体の碑」について>
*陶山義興が墓所を教会の共同墓地として捧げて以来、その墓守人を行い、現在の代々木上原教会牧師を務める陶山義雄は、東洋英和女学院大学名誉教授。東京神学大学卒業後、ニューヨーク・ユニオン神大学院で新約聖書学(STM)、コロンビア大学院で宗教文献学(MA)を修了。日本基督教団牧師として、高井戸教会、代々木上原教会にて携わる。東洋英和女学院大学教授として、福音書と古代文献を介して、歴史のイエスを再構成する研究に携わる。趣味は宗教音楽で東洋英和女学院大学聖歌隊・オーケストラ部を立ち上げた。主な著書に、『イエスをたずねて』、『ヘンデル・メサイア〜心に響く言葉と音楽・癒しのメッセージ』(ヨベル)。
*同墓に原田敬造(2006.1.16没 87才)が眠る。亡くなた時の代々木上原教会牧師であった村上伸が週刊エッセイ『牧師室から』で回想している文を紹介する。原田敬造は野村證券一筋でしたが、信仰生活では独特な動きをしています。1951年に上原教会で赤岩栄牧師から受洗し役員を務めたりしましたが、60年に転勤で京都に移って以来教会には行かなかったらしい。その間は、臨済宗・大珠院の森永宗興老師と出会ってその教えを受ける。1998年4月の「教会だより」に彼が書いたところによると、森永老師はある時、「神(仏)は、祈る人の願いを既に知っておられる。だから、心から他人の幸福を祈っていれば自分の願いも聞かれる」という趣旨のことを言われたそうです。そこにイエスの言葉(マタイ6,8)と通じるものがあることに原田は感動し、それ以来、「祈る時は他者の幸福を祈ればよいのだ」と確信するようになった、と言います。東京に帰ると彼は直ぐ教会に復帰しました。とくに、この教会の発足後は会堂清掃などの奉仕を続けて、黙々と教会を支えました。
|