北海道の旅(その8)

               義経伝説の地そして小樽から洞爺

 

(8/2 土) 寿都―岩内―神威岬―積丹岬―余市―小樽

 夜中に目が覚め、温泉に入ると外は雨である。朝起きてもまだかなり降っている。7時に朝食。一般的な和食で丁度よい。

当初予定の羊蹄国道(5号線)からニセコパノラマライン岩内イワオ・ナイ=硫黄の川)のルートは霧で面白くないと思い、追分ソーランラインを北上することとする。

国道5号線で蕨岱ワルンピ・フル=蕨の丘)まで行き、道道9号から寿都町シュプキ・ペツ=葦・川)へ、弁慶岬ベル・ケイ=裂けた場所)へ向かう。

ここは、蝦夷地へ逃れた弁慶が本土からの援軍を待って、毎日、海を見ていた所と言う。

 

           弁慶岬の灯台               弁慶像(はて、何処を向いていた?)

蝦夷地の義経弁慶にまつわる伝説は、この地方に多い。アイヌの伝承を義経などに置き換えたと言う説もある。古事記や日本書紀などの神話もそのようにして出来たのであろう。

義経主従は、高舘から逃れ、遠野、八戸、十三港、蝦夷地と移って、そこで、日高、さらに奥地へ行ったという。(東北の各地にも伝説として残っている)

神話が出来る初期の姿を想像できて面白い。(勝利者なら大和武尊などのような形になるのだろう。義経主従はどちらかと言えば大国主命に近い。)

            

              岬から見える奇岩(この街道筋にはこのような奇岩が多い)

 岩内に行く途中には、弁慶の刀掛け岩、雷電岬などがあるが、平成6年のがけ崩れで新道が作られ旧道は閉鎖されてしまったのは残念である。

岩内を過ぎて泊村トマリ=入り江、元が日本語だとも言う)に入る。

泊原発の入り口が近付き、原子力環境センターでも行って見るかと思ったが、良く分からないうちに通り過ぎてしまった。この辺で雨も上がり、ホリカップトンネルを抜けて少し行くと鰊御殿とまり

と言う看板があった。これを見てみようと泊漁港の方に行くと、立派に改修された設備があった。

この辺にあった川村家の番屋と武井家の客殿を移設改修したものである。当時の漁具や接待に使われた什器などあらゆるものが保存され、中でやっていたビデオも良く出来ている。

他の鰊御殿などでは、ここまで整備されては居ない。「これも原子力のおかげです」と元村役場に務めていた管理人が言う。「北海道で政府の交付金を貰っていない村はうちだけです」とも言い、

間もなく3号機も出来るのでーー」(ウッシッシといった感じ)とも言う。

さすが原子力の威力である。このまま行くと日本には「村」と言うのは、泊村、刈羽村、東海村(すでに茨城の村は東海村だけ!!ほかになし)になってしまうかも!?

 

                                  




  泊漁港(もはや鰊はいない普通の港)











  鰊御殿
    右:河村家番屋
    左:武井家客殿
         (カタログより)









                

                          番屋前にて       

 泊村を出て、道の駅「オスコイ!かもえない」による。ここにはダイビングプールや宿泊設備がある。平成6年のがけ崩れなどもあり、この辺から先は、新しいトンネルができ、PAも多く、土曜日のためか、小樽、札幌方面からの家族連れの車が増え、海岸でキャンプを張っている。(しかし、その後、04年の台風で被害を受け、再開の目途は立っていない

トンネルの多い海岸線を走り、神威岬に着く。ここにも、義経とアイヌの娘の悲恋の物語がある。この話は、アイヌの伝説がものになっていると言うが、九州の加部島の佐用姫の話と良く似ている。

アイヌの伝説と結びついたとすると、二つの話の起原はあまり変わらない時代であろう。

「義経とチャレンカ」

 義経が、日高地方に居た時、酋長の娘のチャレンカと恋に落ちた。その後、義経は北に向かい、チャレンカはその後を追って神威岬に着き、義経を慕って海に身を投げた。その化身が神威岩になった。その時、チャレンカは、和人の船が女性を乗せて通れば、それを沈めると言い残したということで、それがもとで女人禁制になったとか

「大伴狭手彦と佐用姫」

 大伴狭手彦は天皇の命で朝鮮に兵を率いて出陣する折、近くの松浦の豪族の娘、佐用姫と恋仲になった。そして、狭手彦が朝鮮に渡ると、出兵した加部島まで後を追い、嘆き悲しみ、ついに慕夫石という石になった。(田島神社の横に佐用姫神社がある)

 ここは昔、義経伝説にあるように女人禁制であったという。南に沼前岬ノタ・マイ=紫うにの多い所)、北に積丹シャク・コタン夏の村)が見え、チャレンカの小道と名づけられた岬の道を行くと、先には神威岩カムイ・エトウ=神、岩)が見える。中々の奇観である。

一人旅の女性が居て、彼女に写真を撮ってもらう。

カムイとはアイヌ語で「神」という意味と言われるが「魔物」と言う意味もあったらしい。海難の起こりやすいこの岬周辺、そこにそびえる岩、それを神威岩というのも頷ける。

              

                          チャレンカの小道 

                    

                             神威岩を望む

                        
                            神威岩

 神威岬を離れ、229号線を積丹岬シリバ=海に突き出している岩頭)に向かう。途中、町立「岬の湯しゃこたん」が昨年、オープンしたというのでここに行く。新しいこともあり、かなり混んでいた。

ここで昼飯を食い、車を岬の駐車場にとめ、狭いトンネルを抜けると島武威海岸シュマ・モイ=石の入り江)の上に出る。50mも下の海岸は海の水が透明で綺麗であるが、下まで行く元気もないので、岬の灯台まで歩く。

この周辺は、柏の木が自生している。襟裳岬も開墾される以前はこんな風だったのだろうか。かなりの距離である。

さらに、1.5kmほど行くと、女郎子岩という女人像に似た岩があるとのことだが距離もありいくのは止めた。この岩にもまた、義経伝説がある。

「義経とシララ」

 義経が、北上する時、大時化に会い、大怪我をして地元の酋長の娘シララの看病を受けた。シララは義経を慕っていたが、彼がさらに北に向かうと言うので嘆き、その化身が女郎子岩だという。

 

                   積丹岬 島武威海岸(右の岩の向こうに女郎子岩が)  

                   

                      女郎子岩(カタログ)

 小樽オ・タル・ナイ=砂が融ける川)へ向かう途中で、余市イ・ヨチ=それ(蛇)の多い所ユ・オチ=温泉の多い所)の道の駅「スペース・アップル」による。

すぐ隣が、ニッカウイスキーの北海道工場。ここは前にも来たことがあるが、何か土産にと思い、立寄り見学し原酒など購入。

 

                         ニッカ北海道工場(余市)

小樽市内に入る前に、歌にもあるオタモイ岬オタモイ=砂の入り江)から祝津シュク・トウツ=山ラッキョウの多い所)に行って見る。

オタモイの丘陵地帯は開発が進んで住宅地と化し、マリーンランドなどが出来、完全に俗化している。灯台の写真を撮り、道の横の古い鰊御殿らしき家の写真を撮り、小樽市街に向かう。

  

           オタモイ岬を望む                      昔は鰊御殿?

宿は、「運河の宿ふる川」。運河沿いにあり、洋風のつくりを和風に改造したもの。入り口に足湯など置き、従業員は和服である。大浴場はない。

晩飯を食いに町に出る。今までの町と違い、観光客が多く、運河沿いの道は若い女性を中心に観光客であふれている。人力車の車夫の若い男に写真を撮ってもらい、色々と聞くと、年間800万人の観光客だと言う。彼らは仕事の合間に道路の清掃などやっていた。観光案内所で聞くと小樽駅の近くに三角市場と言うのがあるというので行って見た。17時で食堂などは閉まっていたが市場はまだ開いている。ここで土産品など見て、運河沿いの道に戻る。

            

                            小樽の運河   

            
   
                        運河越しに見るレトロな建物

途中にアーケード街などもあったが、観光客を呼び込むには工夫がいまひとつ。運河沿いの店で地ビールでいくら丼。北海道では何時でもいくら丼になる。

            

                       ここで地ビール&いくら丼

(この日 242km)

 

(8/3 日)定山渓―中山峠-洞爺湖―苫小牧

 今回の旅の最後の日だと言うのに、雨が激しい。5号線で倶知安、留寿都ル・スツ道が山の麓にある)など経由で洞爺湖トー・ヤ沼、岸)に行く予定であったが、どうせ何も見えそうもないので、一度も行ったことのない定山渓温泉を開発した僧、美泉定山の名をとる)ルートを通ることにし、6:20に出発。

朝霧峠に着いた頃は雨がますます激しく、山は霧で何も見えない。ここで車の中で昨夜買って置いた朝飯を食い、ついでに車を雨で洗って、少し休む。

定山渓に着いたが、朝も早く、何処も開いていて居ない。ガソリンが切れそうになっていたが、スタンドが幸い開いていて給油できた。ガソリンスタンドは事前に調査しておかないと開いていなかったりやめたりで危ない。開いていて良かった。

霧の中を道の駅「望洋中山」に着く。天気がよければ羊蹄山マテネシリ女山)が素晴しいと言うが何も見えず。名物の揚げ芋なるものもあるが、ダイエットのため買うのをやめて喜茂別キム・オ・ベツ=山の多い川)から留寿都に向かう。

               

                 中山峠から見た羊蹄山(天気がよければーー)

この街道からも羊蹄山は全く見えず。国道を離れて洞爺町に入り街中を過ぎると湖畔である。湖畔に曙公園がある。雨にもかかわらず子供づれがキャンプをしている。

湖中に半島状のところがあり、浮見堂と言う2層の楼閣が浮かび、対岸は見えず有珠山ウス、ウシ=入り江、湾)の方向も定かではない。狭い湖岸の道をしばらく行くと雨も小降りとなってきた。

               

                         洞爺湖(唯一の写真)

 再び、230号線に出て、平成の噴火で出来た新火口を見に行く。西口火口群金毘羅火口群があり、金毘羅火口群の方は、個人がやっているとか。駐車料金も虻田町のほうが300円、金毘羅の方が1000円。駐車場の横は市の施設の建物が噴火の影響で少し傾いてあり、噴火時の自衛隊のビデオや被害地の写真などがある。

その前は国道で、先の方は陥没し沼となっている。分岐した道路から火口に行くが、道路は傾斜して、所々で水蒸気を吹いたりしている。立てたばかりと思われる別荘風の家が放棄されたままとなっている。

火口は幾つかあり白煙を噴いて、その向こうに崩れた菓子工場の建物がきりに煙っている。天気が良いと虻田町、内浦湾、洞爺湖などの眺望が素晴しいと言う。

  
       
陥没した国道                           西口火口付近

この辺で温泉でもと思ったが虻田町アブ・タ・ペツ鉤を作る川)の設備は、噴火の被害で取り払われ更地となっていた。国道沿いの観光ホテルは客も多く、この辺は敬遠して有珠山ロープウエイに向かう。ロープウエイ駅まで行くと霧が深くなり、何も見えない。

                

                          昭和新山

あきらめて壮瞥町ソー・ペツ滝、川)にいき「横綱北の海記念館(郷土資料館)」に行く。ここで、入植時の苦労などを知り、併設されている「ゆーあいの家」で温泉に入る。北海道で盛んなパークゴルフ場などと一体になっている町営設備で、日曜日で雨でもあり、町の人が沢山来ていた。「おとーさんが優勝したぞ」などと携帯で電話している親父もいた。 食堂がないので自動販売機でてんぷらうどんなど食う。

 453号線を少し行くと道の駅「そうべつサムス」があり、地元の産物など売っていたので、旅も終わりのことゆえ、メロンなど土産に買う。

久保田と言う所から道道2号線にはいるが、道もあまり広くなく、起伏とカーブが多い。霧と雨で疲れたのでオロフレオロ・フレ赤く焼かれた山峠の駐車公園でしばし仮眠。

峠道をさらに15kmほど下り、登別温泉町に着く。

ここから36号で苫小牧に向かう。苫小牧には16時ちょっとすぎに着いてしまい、雨も降っているので、車で少し市内を見て回る。

町の感じは、細長く、十王製紙の工場など日立と似ている。しかし、駅も港も、公共設備も立派である。

 ともかく早いが、フェリー港に行く。一船前のフェリーに乗れないか、切符を買った太平洋フェリーに行くと空席はありませんとつれない返事。

仕方がないのでトイレに行こうとすると奥の三井商戦フェリーの窓口には空席ありと書いてある。同じ船でおかしいとは思ったが、こちらで手続きをして18時45分発に乗ることができた。

つぶれる寸前の太平洋フェリーの対応はこんなものか。船名は太平洋フェリー所属のヘステイア。2等寝台。これにて、総走行距離4415kmの今回の旅は終った。

(この日 243km)

        
                                      







         ヘステイア号にて











            旅の終わりに

 船室で、ホタテを肴に一杯やって飯を食おうとしていると、向かい側では二人の親父がやはり酒を飲み始めた。聞けば、典型的な茨城弁。

話し相手に良いと思い、ホタテなどを差し入れして3人で話しをする。一人はおとなしく、途中で風呂に行くと言って出て行った。舎弟?弟?といったのか良く分からないが兄貴分の方は色々と話しをして面白い。

職業は、石材会社で大きな墓を建てるのが仕事。今回は高さ4m巾1.5mの墓を建てたと言う。そんな墓なら2000万はかかったろうと言うと、墓石部分だけで1300万だ、全体では幾らかは分からない。この商売は、造園業者が全体を請負い、墓の部分だけ自分達がやるのだと言う。石は、いまや世界中から持ってくる。韓国や台湾も何回も行ったとか言う話となり、お定まりの台北の林森北路などの話となる。

色々と大きな墓を作る人も多い。どうせ冥土には金は持っていけないのだからなどと言う。俺も10年ほど前に胃の手術をして、酒と煙草をやめろといわれ、煙草はやめたが酒はやめられない。

最近は仕事中でも昼間に一杯飲む。飲まないとコーキング材を注入するのに手が震えて駄目だなどと物騒なことを言う。でも、夜は、この後、日本酒を一合飲んで仕上げだなどと元気が良い。

そこに、こちら側にいた40台の男も話に加わってきた。彼は北海道で有機肥料を作っており、茨城県の協和町のきゅうり農家に売り込みに行く途中だと言う。

話しをしているうちに、酒も焼酎も飲んでしまい、新しい話し相手が出来たのを幸い、失礼して夢うつつに話しを聞いていると、最後に寝酒だといってパックの日本酒を差し入れてきた。

 旅先で、色々な人と色々な話しをする、それもまた、旅の楽しみであるが、車やホテルなどではその機会が少ないのは残念である。

 

 北海道は広い。この旅で行けなかった所の一部を今年(07年)の7月に旅行した。これを次回追加して北海道の旅の終わりにしたい。

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