北海道の旅(その3)
東の二つの岬――間を隔てる北方領土
(7/23 水) 釧路―厚岸―愛冠ー霧多布―納沙布―根室
例によって、ホテルの朝飯はバイキング。団体を扱う大きなホテルには泊まるべきではない。7:30出発。根釧国道(44号)を厚岸(アツ・ケ・ウシ=おひょう楡の皮をはぐ所)へ。
厚岸近くに望洋台なるものがあり、広い駐車場もあるが人影も無く、行って見ると外国人の二人連れがテントを張っていた。ここは、海岸よりの道道142号線を通った方が面白かったかもしれない。
望洋台(晴れていれば厚岸大橋なども見える)
道の駅「厚岸グルメパーク」は、まだ開いていない。JR厚岸駅の牡蠣飯が有名だが、これもまだで、厚岸大橋をわたって、愛冠(アイ・カップ=矢の上のものーー矢が届かない)岬に向かう。
この入り口付近に北大付属博物館があり、出土品や動植物標本の展示などがあるが、9時からでまだ開いていない。まずは、岬に行く。ここの展望はまあまあ。何でも愛カップルともじって若者に人気のあるスポットとかで、「愛の鐘」などというのもあるが、いまさらーーということで9時になったので引き返し博物館に行ったが誰もこない。大学などいい加減なもの。
あきらめて霧多布(キリタップ=茅を刈る所)岬に向かう。
愛冠岬
ここから霧多布岬までは、まだ40kmもあり、道道123号線で海岸(と言っても少し離れて山中というのに近い)を通って、琵琶瀬(ビバ・セイ=烏貝、貝殻)展望台PAに出る。
この展望台からは360度の眺望が楽しめる中々素晴しいもの。バイクの一人旅の女の子などもいた。
海側には、エトピリカ(エツ・ピリカ=嘴が美しい)が生息していたという嶮暮帰島(ケネポク=はんの木の下)(かってムツゴロウこと畑正憲が一年ほど住んでいた)や、平成5,6年の地震で崩れたというめがね岩などが見える。
山側には、霧多布湿原が一望できる。展望台の周辺には、屋台などの店もあり、厚岸で食い損ねた生牡蠣などを食った。
琵琶瀬(海側の眺望)中央の島がめがね岩 琵琶瀬(山側の眺望)
霧多布岬は丁度、花の季節で灯台の周辺はお花畑のようで、沢山の海鳥(ウミネコが多い)が子育てをしている。
町に戻り、町営温泉「ゆうゆ」に入る。この露天風呂からは琵琶瀬の町や湿原が見え、新しい設備で快適であった。
霧多布岬(柵にはウミネコ)
霧多布温泉「ゆうゆ」
風呂でさっぱりした所で、湿原を縦断する道道808号(MGロード)で湿原センターに向かう。ここの有名な花の「わたすげ」を見るには少し遅く、わずかに咲いているのみ。
霧多布湿原(わたすげとえぞぶくろ)
ここで昼食をとり、湿原を眺める。
隣の備え付けの望遠鏡を見ながら、携帯でなにやら話しているので聞いて見たら、カヌーで湿原に入ったが、迷ってしまったので「あっちが河口だ」などと行く先を指示している。
隣の望遠鏡で湿原を見てみると丹頂鶴の番が見え、確かにカヌーがいた。
44号線にでて根室に向かう計画だったが、女房が「ムツゴロウ動物王国」があると言い出したので霧多布に戻って、道道142号線で立ち寄ってみた。しかし、ここは、立ち入り禁止とかで、売店があってグッズやみやげ物を売っているのみ。外から見るとよぼよぼの馬などがいて、ここで死ねれば天国といった感じである。
(付記)ムツゴロウ動物王国
我々が行った翌年、04年7月に東京都あきるの市に移転した。地元の浜中(オタ・ノシケ=砂浜の中央)町では観光名所という期待があったが、中に人を入れないという畑氏側の意向などもあり美味く行かなかった。
しかも、収入源は畑氏の個人的な活動のみでは不足となり、東京に移転したが、この移転でも動物が伝染病を持ち込むとか言う反対もあり、結局、犬猫中心となりここでも経営不振で倒産し、管理は畑氏の個人プロダクションのハタプロに移っている。
このまま、海岸側を進み、途中から根室本線沿いに初田牛(オ・ハッタラ・ウシ=川口の淵のある所)から別当賀(ベツ・ウッカ=川の瀬)、落石(オク・チン=山の尾根のくぼみ)、昆布盛(コンブ・モイ=コンブの取れる湾)から花咲(ポロ・ノツ=親である岬――この岬の出鼻の当て字)港へと進む。
花咲港は花咲蟹で有名だが、行った時、水揚げしていたのは秋刀魚漁である。しかし、蟹が安いので、今夜の宿は飯の予約をしていないので食ってみようと一杯買う。
港の先に根室車石という天然記念物がある。これは玄武岩の柱状列石の断面が車のように見えるもの。
花咲港
根室車石
根室の町に入らず、道道35号で納沙布(ノッ・サム=岬の傍が岬の名になった)岬へ。岬は、風が冷たく寒い。目の前に水晶島、歯舞諸島などが見える。
例の笹川が立てた平和の塔なるものがあり、900円の入場料(花咲蟹より高い!)を払って入ったが何も無し。北方領土を見て、愛国心を触発されたのか、女房が文句を行っていたが、ここではそれが笹川に向けられる。確かに高い。
日本最東端灯台まで行ったが、すぐ下の海に難破船が放置されているのは頂けない。
平和の塔(上から北方領土が見える)
納沙布岬灯台と当時の沈船の状況
右の沈船は根室海上保安部の納沙布岬ライブカメラHPのもの、ロシア船で我々が行く前のH15/4に遭難した時のもの。現在でも船橋部分が残っている映像がこのHPに載っています。今はもうないでしょう
帰りは、根室海峡側から根室(ニ・ム・オロ・ペツ=流木の詰まる所の川の当て字)に向かう。途中、道路横に北方原生花園があり、立ち寄ってみると柵がある。地元の人が入っていったのでついていくと、中は至る所に馬糞がある。聞くともなしに教えてくれた所によると、馬は、あやめを食わないので他の草が減り、あやめが一面に咲くと言う。これが果たして、原生花園??
根室は寂れた町である。目の前の海が北方領土で占拠されており、千島にあった旧海軍の補給地でも無くなり、海からの発展がなくなっている。
夜は、イーストハーバーホテル。晩飯は買ってきた蟹などで一杯やる。
(この日約243km)
(7/24 木) 根室―中春別―尾岱沼(野付半島)-羅臼―知床
今日も出発は6:30。風連(フレ・ペツ=赤い川{天塩川支流}から来た?)湖を右に見て、厚床(アツ・トコ・ト・ペツ=楡が伸びている川)に向かう。根室の近くに道の駅「スワン44根室」があるが例によって時間が早すぎる。
JR厚床駅からは、標津(シ・ペツ=大きな川――生活圏で一番大切な川)線が分岐していたが、平成元年に廃線になり、途中、幾つかの駅などが残っている。
243号線で奥行PAまで行き、ここで休憩。ここは旧別海村営鉄道奥行臼(ウコイキ・ウシ・ナイ=戦いのある川?アイヌ同士の戦争があったらしい)駅が保存されている。
奥行臼駅(春別から移された共同浴場などもある)
別海(ベツ・カイエ=川が折れ曲がっている)に向かう途中に、新酪農村展望台なるものがあると地図に出ていたので脇道に入っていったが見当たらず、再び、243号で別海から開拓地の中を中春別(シュム・ペツ=油、川または西、川の説がある)までをパイロットロード(8号)を行き、ここから尾岱(オタエトウ=砂の岬)沼港へフロンティアロード(363号)を行く。
周辺は全て酪農地帯。尾岱沼港で名物の縞えびを買う。
春別の酪農地帯
国道244号を野付(ノッケウ=顎)湾に沿って北上し、野付半島の砂嘴に沿って野付岬に下る。ここは26kmにも及ぶ日本最大の砂嘴で、ナラワラ、トドワラなどと呼ばれる枯れ木が湿原の中に立っている。ハマナスや仙台萩などの花も咲いていた。湾内では、白い三角帆の帆船で縞えび漁をしているのが見える。
野付崎灯台まで歩き、海岸にも出てみた。大きな船の無かった江戸時代は、この沖は航行が大変で、船を陸送して湾内を航行したという。
野付半島(遠くに見えるトドワラ)
ここから羅臼(ラウシ=動物の死骸のある所、ラ・ウシ=葛の蔓の多いところなどの説がある)に向かう国後(クンネ・シリ=黒い島)国道335号線では天気もよく、国後島がはっきりと見えた。
羅臼町に着いた時には、雲が増え、国後展望台から国後島はぼんやり見える程度であった。
ここで買ってきた縞えびなども食いながら昼食をとる。
国後展望台から(天気が良いと国後島が見える。(羅臼町HP)
ここを下って少し知床(シレトク=大地の行き止まり)半島に入った所に、マッカウス(蕗の多い所)洞窟があり、天然記念物のヒカリゴケが生えているのを見る。
戻って、知床横断道路に入る。少し行くと「熊の湯」と言う露天温泉があり、ここに入る。女湯は一応、板塀で囲われている。
熱い温泉で、水で薄めているが43度以上はあるだろう。地元の人やキャンプの人もいる。
冬もここまでは除雪しており、来ることができるとか。地元の人達がよく清掃し管理している。
熊の湯
いよいよ、峠越えだが霧が出てきた。知床岬PAでは何も見えず。峠を下り、知床自然センターに着いた頃はすっかりきりも晴れた。残念であった。
ここで、町が作った自然観光の映画を見たが、100人以上は入るであろう館内は、我々夫婦と女の子が一人。観光バスの通過地点か?
ここを北上し、知床五湖に向かう。少なくとも一湖とニ湖は歩こうと思ったが、二湖は熊出没とかで閉鎖。
知床一湖
知床二湖
昔は一湖の傍まで開拓農家があったが今は廃業しており、その土地を環境保全のため1坪地主になるよう呼びかけていた。今は、世界遺産、その後どうなったのだろうか。
宿は、知床第一ホテル。典型的な観光ホテルで丘の上に立って見晴らしも良いが目の下は墓場。宿代も知床一とか。この一角はホテルなどの為に作られた地域らしい。
日の入りを見ようとホテルの案内を見たら5時56分と書いてある。しかし、待っていても中々日が沈まない。確認すると6時56分だという。腹が減ったので食堂に行くと夕食もバイキング。
部屋に帰ると黒猫大和風のお兄さんが来て布団を敷く。合理的とはいえ、風情が無い。結局、日の入りは見られなかった。
(この日約261km)
北方領土
第二次世界大戦の後、スターリンと毛沢東は仲が悪くなり、中ソ国境線でもしばしば問題を起していました。
文化大革命後、1980年代後半に中国に行った時買った中国で印刷された地図では、北方4島が「oqupied by USSR」となっていました。
その後、しばらくして行った時に中国で買った地図では、根室、知床の辺りで地図が切れていて、北方4島は、地図から消えていました。
これらの島に日本人が移住したのは明治になってからで、ソ連に占領されるまで約70年。ソ連が占領してからも約70年です。
これ以上、経つと全てが風化してしまうかもしれません。
資源大国となり「大ロシア」の夢を追うロシアとの交渉は容易ではないでしょうが、地勢的に見れば、4島と言わず、歯舞、色丹、国後で択捉との間に国境を置くのが合理的とも思われますがーー