北海道の旅(その2)

 湖から湿原の旅

(7/21 月) 阿寒湖―屈斜路湖―摩周湖―川湯温泉

 今日は山道が多いので6:30に出発。北斗経由でまりも国道(240号)を阿寒に向かう。
阿寒川ラカン・プッ=ウグイの産卵場の河口=ラカン川=アカン川)と訛り阿寒となった。

途中の道の駅「阿寒丹頂の里」などは当然、開いていない。阿寒湖温泉に着き、自然探勝路をボッケ(=煮え立つ)へと歩く。雌阿寒岳も湖畔から良く見えるが、温泉近くはかなり汚染されている。

 

       阿寒湖畔にて                   つたうるし(顎紫陽花のような花)

 

                              ぼっけ

戻ると、8時半過ぎで、土産物屋も開きつつあり、養殖まりも?(藻を丸めたもの)などを買う。
環境庁の阿寒湖ネイチャーニュージアムが9時に開くのを待ち、周辺の自然や阿寒湖の成り立ちなどを見る。

              

                      阿寒湖エコミュージアム

 阿寒横断道路(241号)で、途中、双湖台により、写真を撮ろうとしたら、カメラが無い。どうやら、ボッケ辺りで落としたか忘れたらしい。

ここからは、ベンケトウ上の湖パンケトウ下の湖)が見えると言うがパンケトウは見えにくい。

 

                    双湖台から見たベンケトウ

 さらに進むと双岳台があり雄阿寒岳、雌阿寒岳が見えると言うが曇ってしまい、立ち寄るのは止めて、241号線を下り、弟子屈テシカ・カ岩盤の上)jから、243号線で美幌峠美幌川にはペポロペツ水量の多い川ピポロペツ石の大きい川の2説あり)向かう。

弟子屈近くの釧路川流域は、ジャガイモ、蕎麦、ビール麦、ひまわりなどが栽培されている。

            

               弟子屈近くのジャガイモや蕎麦畑

美幌峠の道の駅「くるっとパノラマ美幌峠」からの展望は素晴しく、しばし休んで昼食。

 

               美幌峠から見た屈斜路湖

 屈斜路湖は釧路川の水源で、その湖畔には、大きなアイヌのコタン=部落)があった。ここのアイヌは、ポロト大沼と呼んでいたという。クッチャロ咽喉の意味で広い所から流れ出す河口の意味。世界でも最大級のカルデラ湖ですが、1938年に湖底から硫黄分の大量の湧出があって、魚が死に絶え、これが収まって今ではニジマスなどが養殖されているとか。

 峠を下り、屈斜路湖畔の和琴温泉ワコッチ=魚の尾のくびれた所――大町桂月が命名)へ。湖畔にはキャンプ場の他、古くからの露天風呂がある。池のような温泉でお湯の温度が高く砂袋で流入する湯量を調整していた。側に更衣小屋があるが、それ以外は全くのオープン。温泉の鉱分を好む藍藻系の藻が繁殖し、全面が緑色になることもあるという。まあ、裸で女性が入るのは無理と言うもの。夜などは地元の女性も入りに来ることもあるとか。しばし、足湯と洒落る。

                

                 和琴の露天風呂(右側に更衣所がある)

和琴を出て、昔のコタンに造られたアイヌ資料館に行く。側にアイヌの民家があり、観光客に衣装を貸して記念写真を撮らせたり、みやげ物を売ったりしている。ここで、コタンで最も尊い神であるコタンコル・カムイ(コタンを守る神=縞フクロウ)のマグネットなどを買った。

 

                        アイヌ民家と資料館

 資料館も見て、屈斜路湖の湖岸を北上し川湯セセク・ペツ=熱い川=湯の川――函館に同名があるので川湯となった)を通って摩周湖に向かう。

途中に、硫黄山アトゥサヌプリ裸の山)がある。明治には硫黄を取っていたと言うが、今は温泉卵を売って金を取っている。

      

                         硫黄山

 硫黄山を過ぎ、第三展望台に登る辺りから霧がかかり、着いた時には、正に「霧の摩周湖」である。わずかに切り立った崖下の湖面が見えるのみ。

第一展望台や如何にと霧の中を行って見たが、ここも全く何も見えない。明日もあることだしとあきらめて、川湯に戻る。

 ここでは、国民宿舎川湯パークが宿。家族でやっているらしく、民宿風で親切である。

            

                 1 国民宿舎川湯パーク

洞爺湖の観光案内所や駐在所の電話したがカメラは無い。しかし、何処も親切な応対である。駐在所が今は電話でも紛失届けができるんですよと言うので届けておいた。(結局無し)

 ここの湯は、草津、登別などと同じ小生が好きな硫黄泉で酸性度が高い。

 夕食時は、同年輩の一人旅と、高齢の夫婦。同年輩と思った男は60歳とかで、39歳で結婚したので娘二人は高校生で女房は、そっちかかりきりで、自分はのけ者で一人で山歩きをしていると言う。こっちは65歳だなどと言っていると、「君らはまだ若い。俺はもう81歳だ」と

夫婦連れの親父が言い出した。もう、6回も北海道に来て、車であちこち歩いているとのこと。

後で、女房曰く「その奥さんと風呂で一緒になったら、私はもう6回も連れてこられていく所もないといっていた」とのこと。一緒に来るのは、やむを得ずか、心配だからか??

 (この日、約231km)

 

(追記)

 資料館に、アイヌの文化、習慣についての説明展示があり、年代別に説明したパンフレットなどがあり、北海道と本州を分けて年表を作成していたが、実際には東北北部などとの関係もあると思う。小生が勝手に作成した年表をつけてみたので、ご意見あれば教えてください。

 この表を見ると、渡来人がもたらした弥生文化と言うものが、原日本人の縄文文化を破壊

(言い方を変えれば吸収)しながら北上していく過程で、国家を形成する段階の古墳時代には国内のみならず朝鮮半島との抗争もあり、白村江の敗戦で半島から手を引き、唐との国交を回復し、700年代頃から本格的に東北に進出し、鎌倉時代までにこの地方を同化し、1200年頃から北海道に進出していったことが分かる。

この間、交易を通じ、アイヌの人達も和人の文化に触れて、独自のアイヌ文化を形成しつつあったが、幕末から明治以降、ロシアの進出を恐れた日本が本格的に北海道を同化した。

 こうして見ると、日本人は、最近まで縄文の精神を基盤として持っていたと言えるでしょう。

         

                 地域別の文化の変遷

 

(7/22 火) 川湯―摩周湖―900草原―釧路湿原―釧路

 朝、早く目が醒め周辺を散歩。みずなら、唐松などの林の中に散策路があり、くまげらの巣穴なども見られた。
7時過ぎに摩周湖に出発。(摩周湖の名前の由来は調べてもはっきりしない。)

摩周岳カムイヌプリ神の山摩周湖カムイト神の湖)と呼ばれていたと言う。カムイも神という意味の他、魔人という意味もあるという。

第三展望台に行く。途中晴れていたが展望台周辺は霧。若い男が降りてきたので聞くと「真っ白!!」と言う。行って見ると昨日は少し見えた湖面も全く見えない。

しばらくいたがあきらめて降りてくると、さっきの男が「ライトがついてますよ」と言う。聞けば、学生で、就職が決まったので大阪から来て一人で旅している。昨夜は霧多布岬で車で寝たら寒くて眠れず、ここまで走ってきたと言う。第一展望台は?と聞くとあそこは駐車料金が取られるのでここで粘って見ると言う。

 第一展望台も霧が流れ、一瞬、カムイッシュ島(=神の島)が見えたが写真を撮る暇もなし。

 

            霧の摩周湖(天気が良いと右のように見えるというがーーー)

 あきらめて、900草原へ。展望台が丘の頂上にあり、360度の展望が開けているが、生憎の曇天。約7kmの週回路があり、これを廻る。ここは、町営の放牧場で夏は個人の牛を集めて放牧している。(牧草地が900haあることから名付けられた)

         

                   900草原を見る

 牧草地の中を一周し、中久著路に出て、釧路湿原のクチョロ原野線を通り、コッタロ展望台コッタロ小さい湧き壷のあるところ)に出る。

この辺の行政区はかなり入り組んで、中久著路の辺りは、標茶町(シベチャ=大きな川のほとり)の西端辺りとなる。明治から大正期の開拓地である。

(注)

久著路のアイヌ語の意味について、色々と探したが不明で、標茶町のHPに問い合わせた。地名の語源については色々と調べられているが、信頼度が問題で、A>B>Cランクに分けられ、久著路はCランク。近くのヌマオロ川の支流でクチャンベツ狩小屋がある川から来たものということである

            

                コッタロへの道(中久著路周辺)

コッタロ展望台は、トイレなど立派な設備もあり、第一から第三展望台まであるが、丘を登った第一展望台に行く。湿原全体が良く見え、下の水路にはけもの道らしきものもある。

        

                   コッタロ湿原(第一展望台から)

 ここから塘路ト・オロ=湖のところ)への道は、湿原を横切るダート道で、結構、車も多く、周辺の草木は真っ白で、川には観光カヌーなどもあり、段々と荒れて行くようである。湿原の面積も30%以上失われているとか。

              

                        釧路川

 ここから、摩周国道(391号)を少し北上し、シラルトロ沼(=川の中の沼の間という地名)まで行こうと思ったが、途中、サルボ展望台サル・ボ=小さな湿地)というのがあるというので行って見たが、駐車場が良く分からず引き返し、塘路湖の横のエコミュージアムセンターあるこっとに行く。ここで昼食をとる。

                

                    塘路湖エコミュジアムセンター

 この辺は、釧路湿原の含め、縄文時代の温暖期には海が迫り、シラルトロ湖、塘路湖なども海跡湖である。
したがって、縄文時代の遺跡が、山側に多く点在している。

 ここから、達古武湖タッコプ=こぶ山)の横を通って細岡展望台(細長い丘がある、細岡と言う人が開拓使にいた?)に出る。ここからは、釧路川をはさむ湿原がよく見える。さらに、岩保木山イワ・ポキ=霊山の麓)まで行こうと思い、ビジターラウンジで聞くと車は難しいと言うので止めて引き返し、釧路へと進む。

                         

        ビジターラウンジ                     細岡展望台

 

                           細岡展望台から

 釧路クッチャロ咽喉―釧路川河口に小さな沼があり、其処の出入り口が語源と言う説など諸説あり)の中心地に入る前に、河口の米町公園に行く。ここは高台で、アイヌとの交易で

発展してきた釧路の原点。灯台の形をした展望台があり、釧路川の河口が良く見える。
側には啄木の歌碑がある。啄木は若い時近くの釧路新聞に勤めていた。

            

      米町公園と啄木の歌碑しらじらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな

 岩保木山周りを止めたので、時間は十分。少し戻って春採湖ハル・ウトウ・トウ食べ物が豊かな沼)にゆく。釧路は近江商人が築いた町で、故郷の彦根に結び付けて命名したとか。

ここには、釧路市立博物館があるが、残念ながら火曜日は休館。縄文時代は、米町辺りが丘で、この辺一帯は豊かな海であり、多くの遺跡がある。

正に、茨城県が鹿島、鉾田などの丘があり、利根川、霞ヶ浦と海の一部を形成していたのと良く似ている。茨城では、海から弥生人が来たが、ここでは、和人が1000年以上遅れてやってきたということになる。

 湖の周りをドライブし、湖畔のアイヌの砦(チャシ)(神事を行った場所とも言う)に行く。

もとは島であり、大正になってからチャシが発見された。チャランケ話し合いといった意味で、後からつけられたもの。

全日空ホテルへ。(ポイントや優待券があったので泊まって見た)

            

                       チャランケチャシの丘

 宿から早速、一昨日、偵察しておいたフィッシャーマンズワーフへ。会社他への土産を魚屋と酒屋で買って送る。色々と値切って、夜の酒と肴をサービスさせ、それを楽しみつつ、イクラ丼を食う。

                

                     昼のフィッシャーマンズワーフ

(この日、約148km)

 

 (付記)いくら丼と健康

 北海道では、仕事の関係でよくお客さんとゴルフなどやりました。小生がいくら丼が好きなことを皆が知っていて、「鹿島さんはいくら丼」と言うことになっていました。

今回、旅行の2ヶ月ほど前に、人間ドックで最後の評価で若い医者が出てきて「糖尿病です」

などとぶっきらぼうに言いました。

頭に来て、名古屋で行っている平田医者に聞くと、「最近は、HbAc1と血糖値が高いとそういうんですよ、一応、パンフレットを上げます」と言うので貰って読むと、北海道で食えるものは、昆布、ジャガイモ(それもバターなし)、蕎麦、とうもろこし位しかない。

イクラそういわれてもイクラ丼はイクラでも食べられるのだ」などと女房に行ってイクラ丼を食った。(女房も、食いたいものも食べないで長生きしてもしょうがないでしょうと言う口である)

 挙句の果てにホテルに戻るとNHKがテレビで65歳からの食生活などと言う余計な番組をやっている。ここで食生活を切り換えないと80歳まで生きられないでしょうなどと言っているが80歳と言えば、予定数終了と考えているあと10万時間より大分長いのでまあいいかと寝てしまいました。

ついでに

 私は、人間の生物学的寿命は100万時間(114歳前後)と思っています。

60万時間=68.5歳――ほぼ古希

70万時間=80歳

80万時間=91歳

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