九州を旅して(その13)
神仏習合の世界
別府温泉ー宇佐神宮ー国東半島―杵築―院内―日田と進みます。
旅も20日目、いよいよ最後です。別府温泉を6時ごろ出て、高速で宇佐に向かいます。
まずは、豊前の国一の宮宇佐神宮を訪れました。宇佐神宮は全国4万4千と言う八幡宮の総本宮で。宇佐八幡とも言われます。
主祭神は、応神天皇、神功皇后、比売大神です。この比売大神とは何か?様々な説が有るようです。有力な説は、宗像神社の3女神とする説です。
また、なぜ応神天皇が八幡菩薩になったのか?奈良東大寺の建造に当たって宇佐が大きな役割を果たしたというのですが、それは何か?鹿児島神宮(大隈八幡宮)との関係は?
道鏡事件の時、なぜ伊勢神宮でなく宇佐神宮なのか?などなど、日本の古代史をめぐって、卑弥呼、邪馬台国と神話との関係とともに諸説紛々です。
参道 下宮
本宮ご門 本宮
いずれにしても、この宇佐の地は、古くから有力な部族が居たこと、その後も新しい部族が入ってきたことなどを示しているのでしょう。
そして、仏教が入ってきて、大和朝廷がそれを取り入れるとともに、応神天皇=八幡大菩薩となり、天台宗や真言宗など密教と結びつき、山岳仏教、修験道となって言ったと思われます。
東大寺の大仏建立の時、宇佐神宮が大きな働きをしており、この時に朝廷の守護神としての八幡大菩薩=応神天皇が生まれたということです。大きな働きという中には、鋳造技術など大陸、朝鮮半島からの人達の技術も含まれるのでしょう。
宇佐神宮もまた大友宗麟の焼き討ちに会っています。この地方の地侍などは、有史以来の八幡信仰ですから、たとえ、大義名分が毛利氏の味方をしたためと言っても納得しなかったと思われます。
この近くには、大分県立歴史博物館もありますが、時間も早いので、明日時間があれば来ようと言う事にして、国道10号線を下り、国東半島に入ります。
国東半島は円形の両子山をめぐって6つの郷があり、天台宗と結びついた神仏習合の寺が数多くあり、修験道の地で六郷満山といわれる土地です。
しかし、ここもまた、大友宗麟の戦火を免れることが出来ず、明治の廃仏毀釈の影響もあり、数多くあった寺院で完全に残っているものは多くありません。
まず、麓に近く有名な熊野磨崖仏に行きます。ここは昔は六郷満山の中で大きな地位を占めていた胎蔵寺から数百m登った所から鬼が一夜でつくったと言う自然石を並べた99段の階段を上ります。99段ならたいしたことはないと思ったら大間違いで、そこに着くまでが結構大変でした。途中、若い男に追い抜かれ、上で写真をとってもらったりして聞いた所、東京からこちらの工場に来ていて代休で来てみたとの事。
熊野磨崖仏(左が不動明王、右が大日如来)
この辺りの道路も2車線で昔の本に書かれているのとは大違いです。
少し進むと道路の横に、真木大堂があります。かって36坊の霊場を有した馬城山伝乗寺は、700年ほど前に火災で焼失、その寺坊も衰退したので、そこの本尊を一箇所に集めたもの。
建物は単なる収蔵庫で9体の仏像は重要文化財です。
阿弥陀如来と四天王像 大威徳明王像
さらに行くと、蓮華山富貴寺で、ここは満山を統括した西叡山高山寺の末寺の一つで国宝大堂は西国唯一の阿弥陀堂だそうです。
富貴寺山門 国宝阿弥陀堂
ここだけではなく、道端にも、寺の境内にも様々な石の彫り物がありました。1000年の時の中で様々な人が様々な思いで石を刻んだのでしょう。
路傍の様々な石像物
さらに、山頂に向かうと並石ダム、不思議な岩山を見て両子寺です。
岩山に穴が開いている
両子寺は両子山の中腹にある天台宗の寺で8世紀初めに建てられたと言われ、この地における神仏習合、修験道の中心をなしていた所です。山門から奥の院までかなりの距離です。
両子寺参道 護摩堂
両子寺奥の院への道(山王社) 奥の院
他にも色々とあるのですが、足の養生も大切です。北に向かい国見温泉あかねの湯に行きました。山の中ですが立派な施設です。山を見ながら温泉につかり、ゆっくり休み、団子汁(団子でなくうどんの親分みたいなもの)など食って一休み。
あかねの湯(誰も居ないので写真もOK)
ここからまっすぐ北に下りていくと国見町、左に山、右に周防灘を見ながら国道213号線をひたすら進みます。国東半島には小さな川が無数にあり平戸や長崎の沿岸と趣が違います。
道の駅くにさきを過ぎると、大分空港で、杵築や別府方面への車でにぎやかになりました。
定年後、杵築に温泉付の土地を買い住み着いた同期入社のKT君が、6時にホテルにきてくれることになっており、まだ時間もあるので杵築城址に立ち寄ることにしました。
杵築は徳川初期に何回か藩主が変わりましたが、17世紀半ばから松平2万3千石となり、以後、その統治下にありました。
杵築城
この城址公園には、沢山の石造物群があります。これは、近隣の家や寺にあったものを寄贈してもらったものです。天守閣から見た高山川の河口は素晴しい。この辺に海にはカブトガニも住んでいます。大潮のときは、200mも潮が引いて干潟が現れるそうです。
天主から見た河口の風景
K君が奥さんと一緒に来て、行きつけの店で城下かれいなど食いながら、話が弾み時の経つのを忘れました。
今日は21日目。朝飯を食いに来いと誘われ、彼の家に行きました。
友人(仙人のよう!!)と友人のログハウスの中
奥さんの心のこもった朝食をご馳走になり、午前中は彼が杵築の武家屋敷などを案内してくれることになりました。何でも、今、案内のボランティアをすべく、勉強中とか。
杵築の町には、古い武家屋敷や商家が残っています。杵築城址も含めて一日で廻るのに、ちょうど良い位でしょう。表通りの電線が地中化されていないのが残念です。
杵築の武家屋敷 古い坂道
ここで友とも別れを告げ、再び、国道10号線で宇佐の大分県立歴史博物館へ向かいます。
ここでは、「大友宗麟とペトロ岐部」と言う特別展をやっていましたが、遺物や古文書などが中心で全体像をつかめるような企画ではありませんでした。
国道387号線で日田を目指し、途中、道の駅院内に立ち寄りました。ここは、日本一の石橋の町と宣伝しています。江戸末期から明治に作られた谷を繋ぐ多くの橋があります。
ここから、横道にそれ、竜岩寺に行きました。ここは、平安末の創建といわれ、天台宗の寺でしたが、大友宗麟に焼かれて辛うじて奥の院のみが残り、廃寺となっていたのを江戸時代に復興したものですが昔の姿はありません。重要文化財となっている阿弥陀豫来他の仏像があります。もともと修験道の寺ですから、奥の院に行くのも大変でした。
竜岩寺(岩棚の下にある奥の院、前に見えるのは一木造りの階段です)
奥の院と仏像
日田は江戸時代、天領です。古い面影が残るという豆田町に行きました。飛騨高山と似ていますが、なんとなく作られた町並みといった感じを受けました。
江戸時代、掛屋商人といわれる天領の米などを扱う商人が、大名貸しなどで莫大な利益を得て栄えたそうです。日田天領資料館、や広瀬資料館といった資料館が街中にあることですが 広瀬淡窓の事が少しは詳しく出ているかと思ったら、広瀬家のお宝が中心なのにはがっかりしました。少なくとも、下に書いた小生が好きな有名な彼の漢詩位何処かにあってもよさそうなのですがーー(やはり、金貸しの町?!)
時間があれば、4000人を超す若者を教育した彼の私塾である咸宜園も見たいものでした。
日田豆田町 広瀬淡窓の詩
今夜の宿は、ビジネスですが、隣のシティホテルの温泉展望風呂に無料で入れるのが良い所です。
宇佐が弥生から古墳時代、さらに大和朝廷とどんな関係にあったのか、日本史を解き明かす上で重要な鍵の一つであることは間違いないでしょう。
ここまで来ても、まだ、大友宗麟の影に悩まされます。
大分辺りでは大友宗麟は「昔、地元の英雄」「今、大切な観光資源」ということであまり悪口も少ないのですが、この辺に来ると別の見方ですね。
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