九州を旅して(その12)

  大友宗麟の影

 (津久見ー臼杵磨崖仏−西寒田神社ー臼杵)

そして 湯平温泉―大分ー臼杵―佐賀関―大分―別府

 

 今日で旅も19日目に入りました。足を痛めた為、いささか予定変更が続きました。普通なら、もっと予定外の所にも行くのですが、専ら、朝、昼、晩と温泉に入っています、

今回は、話のつながり上から中断した16日目の後半を最初に紹介します。

16日目は、高千穂を出て、延岡佐伯を通り、豊後二見ヶ浦津久見に来ました。そこから、高速に乗り、臼杵、さらには大分に足を伸ばし、臼杵に戻ってここに宿泊しました。

この後半部分を19日目に繋げてお話しします。

 

この地方は、戦国時代、キリシタン大名として九州六カ国に覇を唱えた大友宗麟の根拠地でした。

 津久見には、墓所があり、臼杵城は丹生島城とも言われ、隠居して居住した所で、島津の猛攻を「国崩し」という大砲を使ってしのいだ所です。

大分市は豊後府内と言われ大友氏の中心地です。大友宗麟の人柄は、キリシタン側からは美化され、仏教や神道側からは破壊者として見られています。晩年の宗麟は、キリシタン大名として、神社仏閣の破壊を行い、至る所で破壊の記録が残っています。

この地方を旅し歴史を辿る時、彼の事を省くことはできません。したがって、今回は、この地方の旅を纏めて、書くことにしたのです。

 

「大友宗麟」(1530−1587) 遠藤周作「王の挽歌」などがある。

 廃嫡して三男を後継者にしようとした父を部下達が殺害、当主と成る。当時、九州に勢力を伸ばしていた中国の大内氏と戦い、大内氏が毛利氏に代わって後も争い、ついに1570年、九州から追い出す。この頃が全盛期。

1551年、ザビエルに会い、布教と貿易を許す。以後、府内はキリシタンの有力な拠点となった。しかし、当時は禅宗に凝り、1562年、宗麟と法名を名乗る。

しかし、その後、キリスト教に入信し、神社仏閣などを破壊、部下との亀裂も生じた。

1572年、日向の伊東氏が島津に追われて身を寄せたのを名義大分として、1578年、島津征伐に乗り出すが、耳川の戦いで寡勢の島津に惨敗し、以後、部下の反乱などで勢力は急激に衰えた。この年、洗礼をうけドン・フランシスコと名乗り、理想国を作ると称し、自らは戦いに出なかった。このため、常に先頭に立って戦う島津義久軍の闘志に負けたとも言われる。

その後、島津の猛攻で府内までも占領され、隠居所の丹生島城も攻められたが「国崩し」と言う大砲などで辛うじて防御した。

 この前後、秀吉に助けを求め、九州攻めを実現させ、わが子に豊後一国の領土を安堵してもらったが、1587年死去。朝鮮の役で卑怯な振る舞いありとして、子の代で改易された。

徳川時代には、豊後の国はは、数万石の大名に分国され再び昔の栄華を取り戻すことはなかった。

宗麟は個人的にも、矛盾に満ちた人格で好色で我が儘な振る舞いが多かったらしい。

旅から帰って、遠藤周作の「王の挽歌」を読んで見ましたが、これは遠藤周作文学館にあった周作自身のキリスト教や生活に対する葛藤を踏まえて書いているような気がします。
(周作自身は、後年、狐狸庵先生などと名乗り、葛藤もなくなったようですが)

 

前置きが長くなりましたが、ここから先、旅をすると至る所で大友宗麟の影が感じられます。

                  

                   大友宗麟(どっちが本当の姿??)

 旅の16日目の後半、津久見ICから高速に乗り臼杵ICでおりると、国宝の臼杵石仏はすぐ近くです。(ここは敦煌と姉妹都市とか)  

                  臼杵石仏(他にも何箇所もあります)

 石仏は何箇所も有りますが、戦後修復されて国宝となったのです。これらは皆、満月寺の方を向いているとの事で、平安末期から鎌倉期の作品だそうです。

満月寺は、戦国時代まで多くの宿坊などがあって栄えていましたが、大友宗麟が焼き討ちをしてその後復興することもなく、本堂ができたのは昭和になってからです。

           紫雲山満月寺                 石の仁王像下半身は地中

 再び、臼杵ICに戻り、高速で大分光吉ICから豊後の国一の宮の西寒田神社に行きました。

ここの祭神は。西寒田大神で天照大神の別名と言われています。古い神社でおそらく土地の部族の神を取り込んだのでしょう。大友氏が15世紀初頭、5kmほど離れた本宮山山頂の神社をここに移してといわれています。ここには、33年毎に行われる神衣(かんみそ)祭と言うのがあり、祭神の衣を新調する祭りだそうです。ここも、宗麟の焼き討ちにあっています。

        西寒田神社石橋の横に樹齢200年の大きな藤があり花の名所

 豊後には、もう一つ9世紀に宇佐神宮から分祀した柞原(ゆすはら)八幡宮があり、こちらも一宮といっています。こちらは、国府や国分寺があった大分川よりの所で、中世まで一の宮争いをしていたとか。どちらかと言えば、西寒田神社の方がご本家らしいのですがーー

 しかし、すぐ近くまで、大分のベットタウンが延びてきているのには驚きです。

今日はここまでにして、臼杵に戻り、臼杵城址を訪れました。臼杵は江戸時代を通じて稲葉家の城下町で落ち着いた雰囲気です。

                 臼杵の町並み左図の正面側は海だった

臼杵城は、大友宗麟が隠居して入った城です。隠居とはいえ政治面では理想の国を作ろうなどと夢見て、子の義統との二元政治となり、これも国が衰退した原因と言われています。

宗麟時代、丹生島城(またの名を巨亀城)と言われ島に築かれた城でした。島津軍の猛攻を「国崩し」と言う大砲で対抗したといいます。

           臼杵城                    城址の大友宗麟のレプリカ 

 この町に欠けるものは温泉です。今夜は、ビジネスホテル。

 

さて、旅も19日目です。阿蘇の旅を楽しんで、再び、豊後の国へと戻ります。

宿の朝飯は遅く、昨夜のババ連と一緒も冴えないので、宿を6時ごろ出ました。
大分川に沿って走る久大本線と平行して国道210号線があり、これを大分に向かって下っていきます。

五木や高千穂などの深い渓谷に比べ、この辺の渓谷は浅く、川沿いの農村は色々なものを栽培しています。

                   大分川渓谷の農村風景

7時過ぎには国道の傍の高瀬石仏に着いてしまいました。この石仏は、平安中期ー末期の作と言われていますがあまり風雨にさらされておらず、彩色も残っています。

               高瀬石仏この辺に寺があったのかは調べていません)

 大分に入る辺りで通勤ラッシュで高速に乗るのにもたもたしましたが、ここから再び臼杵ICに戻り、217号線で佐賀関に向かいます。

途中、ウイリアム・アダムスが漂着したという黒島などを眺めて、日鉱佐賀関工場の横を通り、狭い県道で山の中を関崎に向かいます。

 関崎には、海星館という観光設備があり、この先に駐車場があり、灯台まで行けるようですが足を考えて行くのは止めて、海星館の横から少し降りて、四国の佐田岬を遠くに望みました。少し靄っていましたが、よく見えました。確かに海峡は狭く、魚も身が締まるでしょう。

                    関崎から四国佐田岬を望む

 帰りは海岸沿いの道を走りましたが、車に波がかぶるような所の狭い道で中々大変でした。

今度は、217号を大分に向かって進みます。途中、道の駅佐賀関には、さしたるものもなく、大分市内に入ります。海岸線一帯は、埋立地で発電所、新日鉄、昭和電工などの工業地帯、大きな公園などが広がっていました。

そのまま、市街地を抜け、柞原八幡宮に向かいます。

              柞原

                   八幡宮南大門そ社殿の一部

ここは、9世紀の初めに宇佐神宮より分祀されたもので、国府にも近く、勢いはこちらの方が盛んになったようです。宇佐神宮と同じく、33年毎に立替を行う式年祭が行われるそうです。大友氏の尊崇も受けていましたが、大友宗麟時代には、排撃されましたが、その後は、再び尊崇されてきました。

門の造り、名前などいかにも神仏混交でしょう。仁王門の仁王様の所を取り外した形です。本殿は、けばけばしい八幡宮の造りです。参道の所に、樹齢3000年という国宝の大楠があります。

 ここから、山を下っていくと大分川の畔に、国分寺跡大分市立歴史資料館があります。
国分寺跡は整備され、資料館の常設展は、縄文以来の展示を分かりやすく行っていました。

           

                  古代の海岸線の推定

 大分には、多くの古墳、石仏などがあり、これらの位置と地形を見ると、古代には図に青線で示した部分あたりまでが海であったと思われます。事実、縄文時代の遺跡は皆小高い岡にあると、資料館の史料にあります。

 ここで大分を去り、別府に向かいます。別府温泉の中心であ鉄輪(かんなわ)温泉が今夜の宿泊地です。早く着いて、車を宿に預け、「地獄めぐり」に出かけました。

いわゆる地獄は8箇所あるのですが、離れている2箇所はやめにして、歩いていける6箇所のみとしました。



         鬼石坊主地獄



            海地獄
   

6箇所とは言え、結構歩きました。4時前に帰り着き、少し仮眠して露天風呂に入りました。
ここは、砂風呂、露天風呂などの屋外の風呂は全て混浴です。(時間を区切って女性専用)入って見ると、ご夫婦で入浴中。まあ、関心感心もないので一緒に入らせてもらいました。

そうこうしていると、大雨となりました。戻ってきたのは正解でした。
ここのお湯は、よく暖まり、良いお湯です。

今回で、キリシタンに関する話は終わりです。

秀吉のキリシタン布教禁止の裏には、日本j人を奴隷として売り払った、ポルトガル人、それを黙認した宣教師、火薬などがほしい為に奴隷売買に目をつぶった(あるいは関与した)領主など、様々なことがあったに違い有りません。


大友宗麟
なども、最初は貿易の利益や武器の入手の為に布教を許し、彼らが領主を改宗させようとしているのを知って、わざと禅宗の坊主になったとも考えられます。

しかし、何回も彼らに会っているうちに、催眠術にかかったようになり、耳川の戦いを前にして
これに勝とうと改宗したのかもしれませんね。ムジカ(無鹿=music)の里という理想郷を造ろうとして戦いに行かなかったのが敗因とも言われていますがーー)

これに負けたことは、宗麟以上に宣教師達にはショックであったようです。
戦いに勝つ為には、相手の信ずるものを破壊するということは何時の世でも行われてきた事です。
大村、有馬、大友、いずれも神社仏閣を破壊しています。


しかし、負けてしまえば、それも意味がなく、また、破壊が行われていったのです。


「戦いの勝敗」
が全てに優先するのは、今の資本主義社会の企業間の競争も同じでしょう。
しかし、もっと強いものが現れた時、高山右近の様に信仰を曲げず去って行くか、本人は改宗
しなくても、後継者は改宗してしまうかで、神の国は成り立たなかったのです。

日本では、キリシタンと言えば、悲劇とロマンと思うような宣伝が行われています。
しかし、当時の世界の状況を知れば、よく、属国にならなかったと思う方が正しいでしょう。

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