九州を旅して(その10)

                  ひむかの国、天孫降臨の地

 志布志を発ち、都井岬ー飫肥―鵜戸神社―都農神社―椎葉村−高千穂−延岡ー佐伯―津久見―臼杵と進みます。
メインは椎葉村、高千穂で九州中央山地の中、落人と神話の里です。

 

旅も14日目になりました。薩摩藩を抜けて日向の国です。今日は天気の良く絶好のドライブ日和です。まだ、足も痛いが朝昼晩と温泉治療をしつつ進めば何とかなるでしょう。

 国道448号線を少し進むとそこは宮崎県です。20kmほどで都井岬に着きます。
岬の先端には灯台があるのですが早すぎて開いていません。ここから戻って坂を下りていくとここも、縁結びと海難よけの御崎神社があり、その横は特別天然記念物のソテツの自生地となっています。

   

              ソテツの自生地                  御崎神社

 戻ってくると、ビジターセンター「うまの館」があり、御崎馬について色々なことが展示されています。まあ、野生の馬と言ってもすっかり人になれていて、なでても平気です。  

  

                岬の馬たち(釣りに来ていた若者に撮ってもらった)

 日向灘に沿って国道448号を行くと、海水で芋を洗って食う猿がいる幸島が見えます。この辺の海岸はいかにも宮崎という雰囲気が出てきました。

さらに進み、広渡川を少し登ると、伊東氏51千石の城下町飫肥市に着きます。
伊東氏は、鎌倉以来の名門でここを支配していましたが、島津に追われ、秀吉の九州征伐で領地を取り戻し、関が原では二股をかけて秀忠に領土を安堵してもらった人吉の相良氏と似たような経歴です。

 田畑の少ない領地で、海産物や飫肥杉と呼ばれた杉などで財政をカバーしたようですが幕末には困窮し、半地借上どころか、藩士の石高を1/3にしたということです。この辺の杉は、育ちが早く、目が詰んでおらず油分が多くて船材に適していたとか。

見には行きませんでしたが、大迫寺跡が近くにあり、ここが島津に支配されていた頃は大いに栄えていたが、伊藤氏になって衰退、廃仏毀釈で廃寺となっています。誰につくかで盛衰が分けられる良い例でしょう。

 小さな城下町で、飫肥城跡に飫肥城歴史資料館があり、傍には国際交流センター小村寿太郎記念館があります。こちらの方が面白かったですね。

  

            飫肥城大手門                伊東氏屋敷豫章館

 ここは尾張犬山城成瀬氏と婚姻関係にあって、姉妹都市になっているとか。

この先の道は、フェニックスロードと呼ばれる国道220号線で、鵜戸神宮につきます。

祭神は神武天皇親のウガヤフキアエズなど6神。46世紀頃に出来たと思われ、初期の神社の一つでしょう。その後、8世紀には、権現の称号をもらって、真言宗の寺院として神仏混交の形になり、江戸時代には、飫肥、島津氏などの尊崇を集めたといいます。明治以降は、権現の称号を廃止、明治7年に鵜戸神宮という名前となったとの事。

  

                      鵜戸神社(いかにも権現様ですね)

  

                           神社と鬼の洗濯板

  本殿の手前から、この岩のくぼみ(水が入っている)に直径2cmくらいの素焼きの玉5100円(昔はお金を投げたが今は近くの小学生が作るらしい)を、男は左手、女は右手で投げ、入ると願いが適うという。当然駄目。ここに入った玉を守り袋に入れてご利益があると売っているのを300円也で買ってしまった。商売がうまい。

 神宮を出て、道の駅フェニックスへ。ここから見た海の景色はいかにも南国の海です。

  

                    日南海岸の様子

ここで、面白半分に新知事の似顔絵入りのせんべいなど購入してしまいました。この先、青島などを通過し、入ろうとして行った日帰り温泉は廃業。まだ早いのですが、まだ、足も痛いし、洗濯物もたまっている。都城西都原方面に少し足を伸ばせば、面白い史跡などもあったのでしょうがビジネスホテルだが温泉大浴場つきということでホテルに直行してしまいました。

宮崎周辺は幾つもの川が流れこんでいる穀倉地帯ですが、市内には古墳時代の遺跡などもなく、少しはなれた西都原などにあるのを見ると、当時の治水技術では大淀川は大きな川であるため、河口付近での稲作が困難であったのかもしれません。

 海彦、山彦の話などは、山の神が海の神を心服させるという形になっていますが、若狭、常陸などでは、海から来た神が地元の山の荒ぶる神を心服させる形です。

 陸を伝ってきた部族が、地元の海岸に住む部族を制圧して、次は海流に乗って海から陸に進んでいったということでしょうか。

 

今日は、49日旅も15日目です。今日も結構な距離を走らねばなりません。

寝るのも早かったので、540分にホテルを出発、シーガイアを横に見て、一つ葉道路から10号線を北上します。

この一帯は多くの川が中央山地から流れこみ、その周辺に古墳群があります。おそらく、これらの川から流れこんだ土砂が洪積地を作り、23世紀頃の寒冷期に海面が下がり、稲作に適した土地が出来たのでしょう。そこに、北から新しい部族が稲作の技術を持って入ってきた、そしてそれが後の大和の元になったのではないでしょうか。

日本書紀などの天皇の在位期間はいい加減ですが、最近の説では、この時代に当てはまるようです。 しばらく進むと、国道のすぐ横に、日向の国一の宮都農神社があります。

延喜式にも載っている古い神社で、神武天皇が東征の時、勝利と安全を祈って祈願した建てたと書かれています。祭神は、大己貴命すなわち大国主命です。

九州の神社で初めて大国主命が出てきました。想像を逞しくすると、出雲の部族と同盟して東征を行ったということか、ここが後から征服されたということでしょうか。

大国主命が祭神の主な神社は、南端がこの都農神社、北端が常陸の磯崎酒列神社だそうです。あるいは、大和の源はもっと北にあったのかもしれません。

  

                  都農神社(社殿は最近、建て替えられています)

 美々津から県道51を経て国道327号線に入り、しばらく行くと道の駅とうごうですが、まだ7時半です。この辺の道の駅は、病院やスーパーなどもあり、一種のコミュニティセンターみたいです。ここから、国道を延々と進みます。奥に行くにつれ、数年前の台風でのがけ崩れなどの後もまだ残っており、道路工事のダンプなども増えてきました。国道503との分岐点から先は特に道が狭くなってきました。

そして、平家落人の里、ひえつき節の椎葉村です。アクセルを踏んだり緩めたり、痛めた足がまた痛くなってきました。

 上椎葉ダムの上流は日向椎葉湖になっています。上椎葉発電所の変圧器は、日立最初の

超高圧大容量変圧器で、先輩達が苦労して製作したものですが、小生の現役時代、1号器ヲリプレースしましたが、現在、2号器をリプレースのため工場で製作中だそうです。

                  

                          上椎葉ダム

ダムの傍に鶴富屋敷、椎葉民俗芸能博物館などがあります。

         

                  鶴富屋敷の今昔(つつじが満開でした)

鶴富屋敷は、那須大五郎と鶴富姫で有名な屋敷の傍には鶴富姫の墓もありました。

屋敷は、この辺特有の造りで、山の斜面の奥行きのない土地に作るため横長で、座敷は横一列、背面は戸棚や押入れになっています、この屋敷は昭和38年に銅葺きにしており、昔とは違っているんですと案内のおばさんが言っていました。

民俗芸能博物館は、4階建ての立派なもので、この地方の風俗、祭りなどが良く纏められていました。

 椎葉村10時半に出発し、高千穂に向かいます。国道265は良い道で、12時前に道の駅高千穂につきました。明日の予定はかなり強行軍なので、今日にすこし前倒しすることにして、まずは、少し離れた天岩戸神社に向かいました。

祭神は当然、天照大神です。神社は東西に別れ、西は天照が隠れた岩屋の跡という洞窟が神殿(我々は行けない)です。近くに、天照が隠れた時、神が集まって対策会議をやったという天安河原があります。しかし、まだ足も本調子でなく、そこまでは行きませんでした。

  

                 天岩戸神社と天安河原(こちらはパンフレット)

神社入り口に徴古館というこの辺の出土品を集めた所があり、縄文時代からの遺物が収められています。

 昼も回ったので、天岩戸温泉という町営温泉が丘の上になるので行って温泉に入り、「地鶏うどん」というのを食べましたが、知事推薦の地鶏は野山を走り回っているのか歯ごたえがありました。

 ここから、町に戻り、荒立神社くしふる神社に行って見ました。荒立神社は天孫降臨で道案内を務めた猿田彦に嫁さんを取らせるのに周りの荒木で急いで作ったからその名がついたとの神話。くしふる神社は、ニニギノミコトが降臨した時、このくしふる峰に降りたということから出来たという神話があります。

  

                    荒立神社とくしふる神社の説明文

 次に、高千穂神社へ行く事になります。この神社の祭神はニニギノミコト他で、創建は古く、11代垂仁天皇というので、最も古い時代の神社でしょう。(4世紀ごろ?)

  

            高千穂神社と畠山重忠が植えたという秩父杉(800年)

 この地方の総社として尊崇されてきました。この地方に言い伝えに、三毛野命(神武天皇の兄神)が鬼八三千王という長年住人を苦しめてきた荒神を退治したことが創建の初めという言い伝えもあるようで、ここでも先住の民との争いもあったようですね。

 これらの神社は、諸国一の宮の如く領主に保護されてきたというよりは、地元の人達がずーと守ってきたというのが正しいでしょう。神社の格は村社です。

 さらにここを進むと高千穂峡です。天岩戸神社もそうですが、比較的新しい火山爆発で出来た台地や山が削られ、深い渓谷がいくつも出来ています。傍まで行きましたが、足をかばって下までは降りませんでした。

  

              高千穂峡                  下から見るとこんな風だと言う

 最後に神武天皇の孫の建磐竜命が国見をしたと言う国見ヶ丘に登って見ました。

  

                             国見ヶ丘

この国の大きさでは、数百名の兵士を養うことも難しいでしょう。やはり、山を下った日向の国の洪積台地の生産力に基づく兵力が東征などという事業には必要と感じました。

今夜は近くの温泉民宿です。ネットで適当に調べて予約したのですが、この辺では大きい宿であるとか。泊り客は、観光客よりは、道路関係などの工事関係者が多いようです。

焼酎など飲んでいると、隣の親父も暇そうなので話しかけると、定年退職して62歳、会社から頼まれて若い奴の教育もかねて仕事をしているなどと話し始めました。落石を防ぐ為のネットを斜面に張る仕事だそうです。

「俺も、まだ、家のローンが2年残っている。後、数年やってやったらあんたみたいに全国を回りたいね。」

「俺は免許を64歳で取って回っているんですよ、しかし、奥さんと離れて大変でしょう」

「何、俺は親父が57歳の時の子供でやりたい放題、子供は二人だが孫はいない。女房A型、俺O型相性がいいから問題ない」

「孫がいないのは俺も同じ、血液型は、お宅の所と反対だ。だけど、70近くなると体がうまく動かなくなる。夜、ワイヤーにひっかかって、こんなに内出血してしまった」

「本当だ、俺も数日前、斜面で網を張る指導をしていたら、孟宗竹が倒れてきて首の所を打って、一瞬気が遠くなった。すぐに気がついたけれど、若い奴らがびっくりして救急車を呼ぼうとしている。そんなもの呼んだら労基署などうるさくてしょうがない、急いで止めさせた。」

「工期にも響くでしょうしーーー」

「そうだよ、それにしても今の若い奴はだらしがない。きついとすぐ辞めるしーーー」などと

結局、焼酎を一本飲んでしまいました。

 

 今日で6日目、朝、温泉には行ってもまだ焼酎が残っているような感じです。ずっと座って膝を曲げていたので足も痛い。朝飯を食って親父に別れを告げ、臼杵に向かって出発です。

国道218号を走ったのですが、これが失敗。高千穂町付近の橋や渓谷が見え、見晴らしは素晴しいが車を止める場所がなく、止めることが出来ても歩道が山側にしかなく、谷側から下を見ることが出来ない。酒を飲んで寝てしまい、事前に道を良く調べないのが失敗でした。

しばらく進んで、ようやく、下に下る道を見つけ、県道237号線で五ヶ瀬川沿いを進みました。こちらは車も殆ど通らず、谷あいで良い景色です。しかし、数年前の洪水などで高千穂鉄道がやられてしまい、今は、廃線となっているのが残念です。(再開との話も有るようですが)

  

       五ヶ瀬川の渓谷(これでは写真は無理)     廃線となった高千穂鉄道

 しばらく行って、218号線に戻ると、延岡に出ます。ここからは、海岸沿いと日豊本線沿いの国道10号があるが、こちらの方が楽だろうと、山の中を走りました。

         

                  ローカル駅

途中、真新しい重岡駅という駅があり立ち寄ってみると、急行などは結構な本数走っているがこの駅に止まるのは時刻表の通り。

 217号に入る手前に道の駅やよいが有り、温泉設備が併設されているので、ここによることにしていました。しかし看板に曰く、「毎月第二火曜日はお休みです」

仕方がないので、217号で、佐伯市に進みます。ここも古い城下町で、佐伯城址は山の上で、三の丸御門の奥が市役所。城まではかなり急な坂で距離もあるので登るのは断念。

少し進むと城下町らしいたたずまいで風情がありました。しかし、狭い道に紛れ込み、何回も切換して方向転換をしているうちに、バックで後ろのバンパーをガチャン!!

 ここは毛利氏の城下町です。(毛利と言っても中国の毛利とは別)

  

            三の丸御門                    古い町並み

 海岸線を進むと豊後二見ヶ浦があり、注連縄が張ってあります。伊勢二見ヶ浦より規模がかなり大きいです。

         

                     豊後二見ヶ浦

ここを過ぎ、しばらく行くと津久見です。しかし、予定が狂ったり飛ばしたりしてので、ずいぶん時間が余りました。ここから先は、次の回でお話します。

九州の神話から初期の神社までの経緯は、なんとなく自分なりに納得できました。

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