九州の旅(その7)

これからしばらくは、キリシタンから離れて、出水、人吉から大口、薩摩と進みます。

 

牛深港から対岸の蔵之元港は長島という島にあり、しばらく走って黒之瀬戸大橋を渡ると九州本土で、少し行って国道3号線を北上します。

 出水は鶴の飛来地として有名ですが、少し時期も遅く、武家屋敷を見に行きました。ここは同じ薩摩藩の支配地で知覧と似たところもありますが、知覧ほどきちんとした形では昔の姿が残されてはいませんでした。

 

       出水武家屋敷                         観光馬車

 ここから水俣に進み、城址公園に行ったが何もなく、5時頃、日奈久温泉に到着しました。

球磨川の河口に近く、八代市周辺には弥生時代から有力な部族がいたものと思われます。

この周辺にも古い古墳があり、温泉も細川藩主が藩営浴場を設けたという600年の歴史を持つ古い温泉です。江戸時代は薩摩街道の要衝として栄え、明治以降も種田山頭火、徳富蘇峰なども来たと立派なパンフレットに書かれていますが、泊まった宿は、それなりの所を選んだつもりが、全くやる気が感じられませんでした。

                  

                       矢代市日奈久温泉センター

 

十日目は、山の中の狭い県道を通り、球磨川を遡ります。失敗したのは、国道219号線を通ったことです。交通量がそれなりに多く、途中に停まる所がなく、折角の景色も写真も取れません。川の反対側の旧道を通ればと思ったのですが後の祭り。同じような経験を四国に行った時もしたことを思い出しました。

 

                球磨川(向こう岸を通ればよかった)

 球磨川を遡り、人吉の近くに石水寺があります。1417年に開かれたという曹洞宗の寺です。石をくりぬいた山門、めがね橋などがあり、海棠の花でも有名です。ちょうど花の季節で素晴しい景色でした。人吉は、鎌倉時代以来幕末まで一貫して相良氏の支配の下にあり、古い伝統がそのまま残っています。この寺も、廃仏毀釈などの影響もなくそのまま残ったようです。

常陸も幕末まで佐竹氏が続いたらどうだっただろうかなどと考えさせられました。

   

         石水寺と海棠の花                        石をくりぬいた山門

  ここから、すぐに人吉です。市内に入ると青井阿蘇神社があります。こちらは、ちょうど桜が満開の時でした。

              

                           青井神社の参道

 

                  青井阿蘇神社楼門(重要文化財)と拝殿

 この神社は、805年の創建と言いますから、全国で神社が整備された時代のことですが、

祭神は阿蘇神社の祭神のうちの三柱の神を祭っており、神社の由来にも阿蘇地方から開拓に入ってきたのだろうと書かれています。おそらく、弥生時代に移住が行われたのでしょう。

 

                        人吉城址から見た人吉の町

人吉城址は、もともと天守閣のない城跡です。足がまだ痛いのですが、本丸まで登り、町を見ると、そのたたずまいは奥ゆかしく、登った甲斐がありました。

側に人吉城歴史館があり、この地方の歴史が良く分かりました。

このような小藩の城下町は何処でも落ち着いたたたずまいがあるのはなぜでしょうか。

 ここから、国道221号線でえびのまで下る予定でしたが、間違って高速に乗ってしまいえびのICで降りて逆行しました。それは人吉ループなどがあり眺望も素晴しいということだったからです。

             

                       人吉ループ

確かに、外から見た所、車に乗ってドライブには素晴しいのですが、途中の展望PAなどは木が伸びてよく見えません。

再び、えびのに戻り、えびのICから高速に乗り、粟野ICでおり、国道268号線菱刈に向かいます。この辺りは薩摩藩です。菱刈金山があり交流センターがあると言うのが見当たらず、ここを通り過ぎて桜で有名な大口市の忠元公園に立ち寄りました。桜は満開、花見の人が大勢いました。 

              

                          中元公園の桜

 ここから、6km位、川内川に沿って下ると、曾木の滝があります。東洋のナイアガラと称していますが、まあ、規模的には1/50位でしょうか。しかし、中々良く整備されており、傍の土産物屋で、懐かしい伊佐美という焼酎など買ってしまいました。30年ほど前、九電の仕事で行っていた誰かが幻の焼酎ということで、買ってきたのを思い出したからです。

 

                         曾木の滝

 川内川に沿って進むとフラワーロードと言って、景色が良いということだったのですが、行ってみると途中がけ崩れで、全面通行止めです。引き返して国道267号線を通ってさつま町、薩摩川内市と進みます。

ここは、薩摩の島津氏の中心地でもありました。

川内川の川筋は、平地が開け稲作が盛んです。古代、熊襲、隼人の里であったのでしょう。

また、鎌倉末期から南北朝時代の、磨崖仏などもあり、仏教も盛んであったようです。

しかし、旧薩摩藩領内では、江戸時代まで有名であった寺は、殆ど廃寺となっています。

それは、薩摩藩が明治維新後の廃仏毀釈を徹底的にやったためです。

キリシタン盛んなりし頃、九州西岸地帯の寺社が破壊されましたが、今度は廃仏毀釈です。

 

薩摩川内市は、古代、薩摩の国衙が置かれ、薩摩国分寺があった政治の中心地でした。

川内歴史資料館と傍の国分寺址をまず訪れました。資料館ではこの地方の旧石器時代からの出土品、歴史など分かりやすく解説してあります。

                 

                  川内歴史資料館HPより

 国分寺跡は史跡公園として整備されていますが時間が無く、詳しくは見ませんでした。

          

                       国分寺跡の説明

次に、問題の薩摩の国一の宮新田神社に行きました。薩摩の国には一の宮といわれる神社がここと薩摩半島南端の枚聞神社と二つあります。

 

             新田神社

新田神社は、延喜式にも出てこないのですが、島津本家の庇護と八幡信仰もあって、元寇の時、幕府が出した一国一社に敵国調伏を祈願するため神馬の剣を奉納するようにとの命を受けて島津氏がここに奉納したことでここが一の宮と決まったというのですが、今でも決着がついていないようです。

さらに、この神社のある神亀山はニニギノミコト可愛(えの)山稜として宮内庁の管轄化にあるのですが、これまた、明治維新後、薩摩の学者の説を入れて決めたというものです。

                 

                          可愛山陵

可愛山稜については、宮崎県にも言い伝えがあり、扱いに困った宮内庁はこれらを陵墓参考地などと指定してお茶を濁しています。

 いずれの話も、政治力が真実を捻じ曲げた?かも知れないといういい例でしょう。

ここにも、泰平寺という和銅年間に開基された寺があり、ここで島津義弘秀吉に降伏したという所ですが、廃仏毀釈で廃寺となり、古いものは住僧の墓石のみで他は何もありません。

                 

                         泰平寺の古い住僧の墓

この夜は、さらに進んでいちき串木野市湯之元温泉という昔の湯治場に泊まりました。

ここの宿は、昔、湯治場で人々が集団で泊まった飯場風で客も同じようです、電力さんなどの電機保守などをやっているという50代の人と、昔の機械は丈夫だなどと話しをしながら酒を飲みました。宿も親切、お湯も良く、昨夜の日奈久とは大違い。しかも費用は半分。

 

川内市は古代、薩摩の国の中心地でした。また、島津家の根拠地でも有ったのです。

ここで、島津義久は剃髪して、泰平寺に陣取った秀吉と和睦(降伏)し、秀吉の九州征伐は完了したのです。そして、関が原の戦いでは西軍に属し、最後まで戦って無事に退却し、その領地も奪われることが有りませんでした。

この辺は、鹿児島側とは、違った雰囲気です。


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