九州を旅して(その6)
再びキリシタンの地へ
天草はキリシタンの地です。この一帯は戦国時代、北の島津、南の松浦党と神代以来の純日本的な土地に挟まれ、戦国大名達もキリシタンの先進の技術を導入、民衆もキリシタン化し、神道や仏教は排斥され、
いわば、キリシタン支配が進んだ地域です。
しかし、秀吉もキリシタン大名を排斥、徳川となって禁教令で弾圧を受けました。しかし、先に廻った平戸から長崎までと同じく、廻ってみると数多くの教会があり、隠れキリシタンが多くいたことが分かりました。
今回は、9日目ですが、昼過ぎまでの天草に限定して書いてみます。
今日は九州に来て九日目(4/3)
昨夜、泊まった宿は目の前が海で、数年前に兄弟で買い取ってはじめたとのこと。
食わせる魚などは自分達が海で取ってくるものが多いとか。天草松島と言うように島が沢山点在し島原湾と八代海の潮境で魚も多いのでしょう。茨城などと違い、九州の海は岩礁や小島が点在していますから、底引き網などで根こそぎ魚を取ってしまうことがないので、色々な魚がいるのではないでしょうか。
天草上島から天草瀬戸大橋を渡り、天草市内に入って坂を上ると、殉教公園があり、天草切支丹館、明徳寺などが隣接しています。この場所は、中世の本戸城址でここを支配した天草氏の城があったところです。
殉教公園への上り口
慰霊塔
本戸城址の碑
切支丹館の前には、北原白秋の詩碑があります。
明徳寺は、天領となった後、天草代官鈴木氏が改宗と民衆安堵のために建立したものです。
天草は天草上島。下島などからなり、天草五人衆という五つの豪族が支配し、中世以降、海外にも進出したと言います。こちらから海外に行くのは、朝鮮経由ではなく島伝いに中国に行くのがルートでしょう。
早くからキリシタン化が進みましたが、もし、私がフェリペU世で日本の地理に明るいなら日本侵略の戦略的拠点として、この天草を選んだでしょう。
平戸から長崎までは所々に良港はあっても海岸線には山が接し、容易に人を受け付けず住民も少ない。さらに、古来からの海の民である松浦水軍が頑張っている。
それに対し、天草は島が大きく住民もおり、住民がキリスト教徒なら、海軍力があれば守ることは比較的容易である。日本支配の進出拠点としては、絶好の場所と言えるでしょう。
当時、現実の世界でもそれに似たようなことが起こりつつあったと思います。
しかし、日本では宗教の政治支配は道鏡以来排除されており、信長の比叡山や長島一揆、一向宗などの経験から宗教の民衆支配の恐ろしさを知っている秀吉、家康の禁教令が出たと言うことではないでしょうか。
実際、江戸時代になっても、薩摩藩などは一向宗をキリシタン同様に取り締まったということです。
南米などと違う所は、インカの王は祭政一致の支配でしたが、日本は違っていたと言うことでしょうか。
しかし、貧しい一般民衆は、献身的な司祭に感動し、支配者(戦国大名)はそれを自分の勢力拡大に利用しようとすることでキリシタン化が進んだのでしょう。
歴史教育が叫ばれていますが、「もしも」と言うSF的な発想で歴史を見られるような教育をしてもらいたいものです。
天草を出てしばらく行くと天草灘に突き出た富岡があり、天草の乱の激戦地であったそうです。ここに富岡城を再建、現在周辺を整備中でした。車で上まで行けず、足も痛いので城まで行くのは断念しました。
さらに進んで、九電苓北発電所の横を通り、苓北歴史資料館に行きました。しかし、今日は月曜日でお休みです。
さらに進むと旧道から少し入った所に、大江天主堂があります。明治18年、フランス人のガルニエ神父が来て昭和16年に亡くなるまで布教に努めた所で、明治40年には、北原白秋ら5人の文人が訪れた所、ここで邪宗門などの詩の着想を得たのでしょう。
大江天主堂 内部
少し先が崎津漁港で海岸に近い所に崎津天主堂があります。この教会は1569年に建てられ、この辺りの布教の中心であったそうですが、禁教令によって弾圧され、隠れキリシタンとなって、明治まで信仰を守ってきたのだそうです。この教会の祭壇の辺りで踏み絵が行われていたと説明の立て札に書いてありました。
崎津天主堂(床は薄縁でなく畳のように見えました)
フェリーの時間もあるので崎津を過ぎて牛深に入り、温泉センターで足を温めて疲れを取り、牛深港で海鮮料理などを食って横浜から来た若いオートバイ野郎などと船出を待ちます。
牛深港から蔵之元港へ
振り返って天草を見る時、戦国時代の宣教師と明治の宣教師にキリストの教えについてそれぞれの考えを聞いて見たいものだと思いました。